Monday, December 31, 2007

[廈門・570天] 離開 - 日だまりの午後

[離開 li2kai4 ]:(人、物、場所から)離れる。(クラウン中日辞典)

日本は今年最後の日、廈門では一番寒い冬の一日を迎えている。久しぶりにのんびりした午後、テラスに出て向かいのコロンス嶋を眺め、新年の挨拶文を作成した。二週間前は新しい事業をどう展開するか、ガッコの先生とあれこれ、一週間前は台湾に出向き、新しい仕事、デザインシステム構築の可能性について打ち合わせをしてきた。あれやこれやこちらの正月、春節までに居場所も仕事もみな決めなければならない。

みなが聞いてくる、「辛いでしょう」、「(会社に対して)怒っているでしょう」、「お金(給与)はちゃんと精算してくれましたか?」。辛くも怒ってもお金の心配もしていない。いいころ加減な時期になっていたのだ。新しく可能性のあるやりがいの仕事ができることを喜んでいる。

礼儀をわきまえない台湾人が大口を叩き、「仕事がなければすぐ(今の会社を)辞める!」、「辞めると口にしたらそうする!」、「麗江に家を買って老後を過ごすのだ!」、「(会社の人間とは)友人づきあいはしない!」といっていたのが、いつの間にか辺り構わず愛想を振りまき、ボスにヘコヘコし始めたのは、直接のボス、わたしたちを引き込んだ元ボスが去るからだ。目の上のたんこぶが消える。

元ボスは北京に行くという。しかし彼は疑っている。三週間ほどまえ、国内最大の建設会社から国賓並みの待遇を受けて戻ってきた。出来過ぎているとわたしに語った。出向いていっても、お飾りで終わってしまいそうだと話してくれた。オリンピック施設の建設はもう完成間近だ。国内大都市の狂気の沙汰とも思えたマンション価格も頭打ちとなった。すでに各所で値下がり始めたという。国は今後、低所得者向け住居の充実を公言している。方向転回、先が見え始めた。

今日が最後のこの会社、ここも石化工場、PXの移転という難題に立ち向かわなければならない。ほかにも開発部門のプロジェクト、廈門最大の案件は、いまだに設計も終わらず、建築許可もどうなるかわからず、会社内部で予算執行の先行きも見えていない。みんな不明瞭な状況にある。わたしは落ち着いて周りを見ることにしたい。

久しぶりにのんびりした午後、日だまりのテラスは気持ちがいい。勝間の、冬の縁側を思い出した。ただ残念なのは、わたしの周りにネココが見当たらないことだ。

今日は大晦日、良い年をお迎えください。ここ廈門で大晦日は意味をなさない。みな旧正月の熱気を待っている。ひと月後、私も熱を帯びざるを得ない。

[ MEMO: 今日が最後の本社ビルの回廊。影のボスを象徴するようなデザイン。感慨はない。ビルを取り巻く庭園にやってくる小鳥たちの姿と鳴き声が聞けなくなり、代わって家の中にまで入り込んでくるMRT工事の音と、上の階の住民がたてる音に悩まされ始めた。それももう少しの辛抱だ。 ]

Saturday, December 29, 2007

[廈門・568天] 離開 - 離職者たち

[離開 li2kai4 ]:(人、物、場所から)離れる。(クラウン中日辞典)

先ほど以前の同僚から電話が入った。離職したと。離職したのは彼だけでなく、部門の半数が今日をもって離れたのだそうだ。この部門、企業集団の核をなすところである。石油化学部門、稼ぎ頭の部門、その工事を管理する人間が半分になる。なんてこった。

廈門市の肝いりで進められていたプロジェクト、環境問題で市民の反感を買い、半年間中断していた。その解決、場所を廈門から遠い場所、人家の少ない半島への移転が先日決まったところだった。計画は一から出直しになったのだろう、建設は少なくとも一年以上先になるはずだ。余裕のなくなった会社が、余剰人員として退社してもらったようだ。

電話をくれた彼、会社の喫煙場所で知り合った。「七匹狼」という煙草を愛煙していた。あだ名はもちろん七匹狼。客家人の多く住むミン西の出、彼も客家人である。彼の上司、KTVをこよなく愛した台湾人の経理は三ヶ月前に離れている。

環境問題がここ中国でも大きく取り上げられるようになった。京都議定書の頃にはそっぽを向いていた中国、ようやく方向を転換し始めた。いいことだ、と同時にアタシとガッコの先生が考えていることが受け入れやすくなったわけだ。それだけではない、台湾の時流、流行は「緑建築」、開発案件の売り言葉になっていた。先日訪れた台湾の地方都市郊外の別荘開発では、棚田をそのまま残しながら、ビオトープ、有機野菜畑、既存樹木の保存、を盛り込んでいた。パンフレットには、生息する小動物、昆虫、野鳥、などの紹介、有機野菜を使ったレストランの案内図などを盛り込んでいた。やるもんだ。ただ、日本円にして一件一億近い。この物件を手にできる人間だけがキャッチフレーズの「半農半職」を味わえる。可能なのだろうか。

「グリーン」が売れる、そうあってほしい。今後、石油化学を売りにしなければならない企業はつらいだろう。去るならいまのうちである。しかし同僚たちは今後、どのような道を歩んでいくのだろうか。

[ MEMO: 台北には廈門本島の人造湖脇にある別荘を店舗に改良したような雰囲気の場所はない。ここは落ち着く。珈琲一杯が30元近い。日本円で500円、同じではないか。ベンツにBMWにレンジローバー、時にフェラーリが止まっていたりする。 ]

Wednesday, December 26, 2007

[廈門・565天] 離開 - 再会

[離開 li2kai4 ]:(人、物、場所から)離れる。(クラウン中日辞典)

台湾滞在三日目、二年ぶりの再会、三十年来の大哥(アニキ)と二ヶ月間世話になった事務所の連中、そしてLuLu。LuLuはサンドウィッチ屋さんの名前。今日の昼、ここでツナサンドと今日のスープを口にした。

大哥はそれとなくわたしの離職を知ってか、今月初めに廈門に連絡を入れてくれていた。「いつ台湾に来ますか?遊びに来てください」。いま目の前にその大哥がいる。大哥はわたしの近況を、行く末の話を聞き終えると話し始めた。

「わたしたちで取り組んだパラオのプロジェクト、あれから七年、あのときのコンセプトがここまで充実してきました・・・」と、最近とりまとめたというネットワークデザイン&マネージメントシステムを見せてくれた。パラオのプロジェクトの時は、紙の上で行こなっていた作業が、目の前で、パソコンに組み込まれたコンポーネントを用い、彼らによって作り上げられたプラットフォーム上で展開されていった。

辛抱強く、無理をせず、七年間かけた成果だ。この成果をあるプロジェクトに応用し、確実なものにしたいという。どうだろうか、興味があるだろうか、参加してみないか、と話しかけた。大哥は不確定な話しはしない。はっきりするまで口にすることはない。その大哥が口にした。断る口実はない、いや廈門を棄てるのは忍びがたい。しかし廈門の仕事も大哥が背中を押した仕事である。その彼が再度背中を押してきた。

棄てる者あれば拾う神あり。さてどうする、廈門のガッコの先生との話は始まったばかりである。二兎追うもの一兎をも得ず。しっかり腰を据えて考えねばならない。人生最後の取り組みなのだから。

もし台湾に移り住んだらどうだろう、「老後の面倒はわたしがみるから廈門に住みなさい」とささやいた乳飲み子を抱える廈門のあねさん、残念がるだろうなー、と変な心配をしてみたりした。

[ MEMO: 三年前世話になった事務所のヒロインは変わらず美しかった。食事の席、脇にやってき、わたしの頬に優しく口づけをしてきた。大人だなー。廈門では出逢うことのできない女性だ。 ]

Tuesday, December 25, 2007

[廈門・564天] 離開 - 滞在許可-I

[離開 li2kai4 ]:(人、物、場所から)離れる。(クラウン中日辞典)

十一月末、広州に飛んだ。広州の日本領事館を訪れるためだ。辞職勧告も知らされていなかったこのとき、中国滞在のビザが切れる十二月八日まえにパスポートを更新しておきたかったからだ。パスポートも来年二月に切れる。三ヶ月後に切れるパスポート上に一年のビザを載せることはできない。一日休みを取って日帰りの広州への旅だ。早朝七時の便、廈門から僅か一時間の広州へ。空港の外に出ると、目の前に市内直行のリムジンバス。下りたところが日本領事館の入ったホテル。領事館の女性の指示に従い、書類に必要事項を記入し、近くで顔写真をとり、昼前に手続きは完了。直ぐさまリムジンに乗り込み、空港へと戻った。

会社から日本の旅行会社に電話を入れた。三十年来の付き合い、そういえば彼女、五十の大台に乗ったのではないだろうか、その彼女にパスポートとビザを更新したい、日本で要する日数はと聞いてみた。彼女、「二週間ちょうだい」。とてもそんな長期間休みは取れない。公休を取っても、月給の四分の一が吹っ飛ぶ。でかい数字だ。「オイオイどうにかならないのー、何かツテはないのー」と懇願すると、「あーそうだ、確か現地で更新できるはず、聞いてみる」と返事。できるのだ、いまは、簡単に。

まずウェッブ上、中国大使館のなかを探してみる。おおよその見当がついた。電話で直接確認してみる。「中二日で可能ですよ」。広州領事館の返答。本籍地さえ変わってなければ、パスポートの更新は、いま有効なパスポートと一枚の顔写真と書類一通、これで丸三日でOKなことがわかった。日本に戻れば、行き来で二日、パスポート更新に五営業日、ビザ取得に二営業日・・・。

とりあえず手続きだけは進めておこう、そのあと、パスポートを更新したその足で香港に飛んでビザを更新しよう。ビザ更新は、これまた昔なじみの旅行社さんが現地の人間を紹介してくれた。現地の彼曰く、十二時まえにパスポートを渡してくれれば、夕刻六時にビザを取得できるという。それもロングステイの。そうか、中国がらみは香港か、みな香港に飛ぶ理由がわかった・・・。(続く)

[ MEMO: 台湾の大兄、全て段取りを整えてくれていた。春節以降、わたしが同意すれば、大きなプロジェクトがまっている。廈門はどうする?離れがたい。台湾のプロジェクトを終えてから戻るか? ]

Monday, December 24, 2007

[廈門・563天] 離開 - 聖誕快楽!

[離開 li2kai4 ]:(人、物、場所から)離れる。(クラウン中日辞典)

「聖誕快楽!」。今日はこの一句がSMS上で飛びかっている。何はともあれ一つの節目なのだ。わたしも節目に乗ることにした。ただし、わたしは廈門にいない。

五日間の予定、大陸での仕事の件を検討するため、いま小雨の台北にいる。町もホテルもクリスマスで賑わっていると思いきや、そんな気配は微塵もない。ささやかなイルミネーション、小柄で美形だが、いささか厚化粧のホテル嬢は、「若者の日よ!」と口にした。彼女、三年前に長逗留した際にもいたのか、記憶は薄い。ただ、「アナタの記録が残っていますよ」と彼女は答えた。

昼過ぎに廈門を発ち、マカオ空港でトランジット、そして台北へ。廈門空港にしろ、マカオの空港にしろ、小振りなのがいい。変にばかでかくなく、人の群れでごった返す様子もない。マカオ経由の他に、香港経由も便がよく、台湾人はこのルートを利用している。最近では、国内空港から金門島へ、そこから船旅で廈門というのが安く早いと好評のようだ。但しアタシのような外国人は利用できない。

空港に着きすぐに手を打ったのが、携帯電話のプリペイドカード。いまではアタシも中国人並みのライフスタイルとなり、携帯電話なしでは何もできないでいる。何事も早く早くそして安く。中国での商売は迅速がモットーなのである。日本円で約千円のSIMカードを購入し、大陸のカードから差し替えた。

リムジンバスに乗り手当たり次第ショートメール、「聖誕快楽!」。視線の高いバスの席から見る台北の夜はどこか落ち着いて見えた。町中が駆け足だった時代は終わったのか、イブだったからかそれとも雨のせいだったのか・・・。

[ MEMO: 唐詩の件で張り合ったスカイプの友、出がけにパソコンを立ち上げると文字絵のクリスマスツリーを送ってくれていた。洒落ていた。 ]

Friday, December 21, 2007

[廈門・560天] 離開 - 開始

[離開 li2kai4 ]:(人、物、場所から)離れる。(クラウン中日辞典)

シンさんからは実にいいタイミングでメールが届く。今回もそうだ。丁度、アタシの生き方にいくつか方向が見えはじめたときに受け取った。返事をしたためたが、この際だ、blog更新のネタに使わせてもらうことにした。まあいい加減なジジであります。公開する関係で、内容は一部書き換えております。


現況報告:いくつかの選択肢が考えられる。ごく常識的に、わたしの専門である建築の企劃設計の仕事を続けること。お二方から話あり。まだお会いして話をしたわけではなく、一つの話で来週台湾に行ってくる。もう一つは春節まえに上海あたりで。とはいえ、食っていくにはいい仕事かもしれないが、やり残したいこととは一寸違っている。

ほかの話:もともと東京を離れ、千葉の片田舎で畑に取り組んだのは、四角張っていえば、環境とエコロジーに関わりたいと思っていたから。ガッコの先生と進めている話はこの件。こちらの大手会社が支援してくれるらしい。ということで何度か話をした。しかしガッコの先生がやりたいことと、わたしがやりたいことに差がある。彼は大きな製造に関わりたいらしい。日本の先端技術を移入したり工場建設したり・・・。さすが中国人、話は大きい。わたしはささやかである。再利用とか自然エネルギーとかをキーワードにしていきたい。

関連した話:廈門で会社を。ガッコの先生なり彼の仲間と投資して小さな会社を開く。わたしはニッチで面白そうなものに関わる。廈門に拠点を置きたいならこの方法が一番可能性が高い。場合によっては、建築がらみの話しもここで受けられればいうことなし。

関連した場所:今週末、ガッコの先生とある建物を見に行く。どうやら親戚が持っているらしい。低層で、三十年代の上海あたりの雰囲気らしい。ここをオフィスなりショップなりに使えるかどうかを見てくる。住むにもいいかもしれない。家中植物で埋め尽くしてみたい。猫も子猫も養えるかもしれない。(バキッツ!)

数年後のアタシ:ここ廈門には、老外(西洋人)の開いた店が多い。大部分はレストランとかスナックとかスタンドバー。まあそれなりにみな雰囲気がある。アタシにもそんな姿が考えられる。オフィスにはシンさんの絵が飾られることになるだろう。

協力者募集:したいと思っている。但しできることは限られるだろうから、大きく張ることはしたくないし、みんながやってきて楽しく過ごせる環境にしたい。貴兄は絵かな?どうだろうか、面白い展開はできないだろうか、シンさんの智恵をお借りしたい。

これからは体力勝負、いまでは送り迎えの車もなし、公衆バスでの移動だし、一寸した距離なら歩いて移動している。一時間半かけてコーヒーショップを行き帰りしたりしている。シンさんのテニスとまでは行かないが、かなりの運動量になっている。おかげでこのところ体中の筋肉が痛む。

ではでは・・・ 廈門のジジ

[ MEMO: 唐詩の件で張り合ったスカイプの友、遠回しに心配してくれているようだ。彼女のメモ欄に "PRISON BREAK?..." ]

Monday, December 3, 2007

[廈門・543天] 離開 -1

[離開 li2kai4 ]:(人、物、場所から)離れる。(クラウン中日辞典)

今日、東京のシンさんからメールが届いた。今年の寒さが紅葉をいつになく美しく見せているとあった。返事をしたためた。

「実にいいタイミングでメールを受け取っております。

本日、辞職勧告を言い渡されたのであります。ながーい権力闘争がついに私にまで及んだ次第なのであります。一時期は何とか収まったと思っていたものの、深いところでは続いていたのでした。まあのんびりとした一年半だったので、愚痴の一つもでてきませんし、一寸休暇を取ってから、失業するわけなので四六時中暇になるわけなので休暇とは言いがたいものの、今後何をしていくかに思いを巡らせようかと思っております。

ただ厄介なのはビザ、会社にいたときは一年という優遇されたビザがとれたので
すが、今後はせいぜい一ヶ月、その都度国外へと逃れなければならない。面倒だし、なにより金がかかる。失業の身には堪える。この数週間の間にあれこれ始末をつけなければならないのです。

この一年半、わたしはここ廈門で多くの友人に恵まれました。例えばガッコの先生とか、可愛く我が儘な秘書とか、面倒見のいい下町のおネーさんのような人妻とか、隙あらばわたしを仕留めようと狙っているお手伝いさんとか、口うるさく意見する台湾人の医者とか・・・とても貴重な財産がここにはあります。それを棄てる気は今のところないのであります。台湾人たちが、内にこもってカネ稼ぎに追われているのを見るにつけ、人という財産があたしにはあることをとても誇りにさえ思えてくるのであります。

差し迫った問題はビザ、とりあえず一度日本に戻ることになるやもしれません。もしかしたら靖国参拝に加わることができるかもしれません。状況がはっきりした時点で連絡を入れます。

とりあえずのご報告です。ではでは・・・ 廈門のジジ」

[ MEMO: それにしても突然の勧告、ビザの問題がなければどーってことなかったものの、いやはやまったくもってこの会社は管理システムがなっていない。困ったものだ。 ]

Friday, November 16, 2007

[廈門・526天] skypeの友たちとの微妙な関係

先日skypeの友と漢詩の件で言い争いをした。どうもお互いしこりが残っているようで、わたしのコメント欄に台湾のポップスの一節を載せたところ、「おー、面白いこと言ってるわねー」(ENG)と、相手のコメント欄が反応してきた。数日後、「このところ疲れるんだー」(ENG)とコメント欄が書き換えられた。今度はわたしが反応し、「気持ちを開けば疲れることないんだよなー」(ENG)。

このコメント欄というのは、不特定多数に向けて書かれるもので、誰それに向けてというものではない。直接指名相手に書き込まれているのではない。だから、アタシに向けているのかどうかは特定できない性格のもの。それでも・・・かもしれない・・・で反応してみる。相手が然る者なら、それなりに対応していただける。

skypeはインターネットフォン、安く電話する、海外だろうがお構いなし、とわたしは当初おもっていた。そのつもりでこちらでも役立つだろうと考えていた。ところがここ中国ではいささか異なっていた。主な使いみちはチャット。だから音声で呼びかけても、「あー仕事場ですので話はできませーん」(CHN)とチャットで返事。彼ら、仕事の合間を使ってフル活用しているらしい。

河北のスカ友と交信が途絶えて久しい。当初、二人してかなり多岐にわたる話題で盛り上がっていた。最後は付き合いきれないよなー、というわたしの身勝手なところで幕を閉じた。

同じ廈門に住み、日本語を独学で学び、わたしを教材にしてくれた女性がいた。家に戻り、パソコンを開くと真っ先にチャットを求めてきたのも彼女だ。やはり長く付き合っていると疲れてしまった。わたしの勝手さからだ。

台湾から突然にメールが入る。数年前、仕事でアシストしてくれた米国系中国人からだ。かのフェアウェルパーティーがはねたところで、衆目のなか、わたしに駆け寄り、腕をわたしに回した美形だ。懐かしい。skypeでチャットを始めたが、英語でのやり取りに疲れて終わったままだ。

見ず知らずの人と会話を持続させることの難しさ、いつでも回線を切れる気楽さ、それがわたしの身勝手な道具、skypeである。(もちろん正しく有効に家族との絆を日々確かめておいでの麗江の若造のような方もおいでなのです。使い方はいろいろ、ご本人次第であります。)

[ MEMO: 諍いのあった台湾人、ご婦人と麗江に永住してみたいと話していた。麗江、住む場所じゃないとアタシは感じましたけど。 ]

Tuesday, November 13, 2007

[廈門・523天] 出逢いとそして別れと

いつの間にか居座ってしまった廈門、気がつけば五百日を超えている。目処を立ててきたはずなのだが、何がそうさせているのだろう。思うに、ここでは人との出会いと別れの場が多かったからではないか。心に残る出逢い、去っていった友とがあったからではないだろうか。次の出逢いを期待しているからかもしれない。

・デブのアレックスが去っていった。別れ際、「可愛いコさがして仲良く過ごしてください」の一言。日本留学の経験ある彼のおかげで、資料の翻訳に不自由はなかった。米国留学もあり、数少ない国際性を身につけていた一人だ。

・化学工場の工程管理をしていたリー君が去っていった。ここにきて、はじめてKTVに連れ出してくれたのは彼だ。彼のお気に入りの歌手、今ではわたしが、店で暇を持て余している彼女の、暇つぶしのメールに付き合わされている。彼の置きみやげはお手伝いさん。彼が去った後、わたしの面倒を見てくれている。

・工事管理部門の責任者、中国人の林さん。学歴経歴いうことなし。会議で話をさせればきっちり一時間話をしていた。その彼も去っていった。

・台湾人の医者と懇意になるには時間がかかった。かかった分、深い親密さを築いている。わたしがカフェの若い子と仲良くやっていると脇で軽蔑の眼差し、KTVでしこたま飲めば「酒だけはやめろ!」と忠告、長引いた喉の痛みをどーってことないと言いながら、ちゃんと薬の説明をしてくれていた。そのくせヘビースモーカーなのだ。

・先日女の子を出産した女性、彼女は思いっきり強烈な手助けをしてくれた。仕事場で実に不愉快な思いをした時のこと。彼女、わたしの顔を両手で優しく包み込み、慰めの言葉を口にし、帰りのバス、腕をとり、わたしの肩に顔を埋め、じっと寄り添ってくれていた。わたしは次第に心が和んでいった。この出来事を目にしていた仕事場の連中はたまげ、しばらく職場の全ての部門で話題になったという。そうだろう、わたしですら思いもよらなかったことだ。子供が生まれた今、もうそんなことは起こりえないだろう。

・かわいらしい元秘書兼元中国語の家庭教師とは、半年間、喜怒哀楽を共にした。わたしは彼女の喜怒哀楽を知るただ一人の男性となっている。おしゃべりで、余計なことに手を出すのが好きで、人の話を聞かず、自分勝手でと、いいことなしだが、世話好きなところで勝手のわからない外国人を助けてくれた。

うー、一寸ウルウル気分で書いてしまった。年のせいかなー。

[ MEMO: 一年半、どうにも馴染めなかったのが、開発部門の、同じ時期にやってきた台湾人の連中。俗に言う競争相手たちだ。この連中には今でもうんざりしている。 ]

Monday, November 12, 2007

[廈門・522天] 幕が下りたあと

その昔、代々木のカンボジア料理店にしばしば出入りしていた。かつては、今の店と少し離れた坂下の、寿司屋を改装することなく営業していた。小さな店のカウンターだけの店。店主は動乱期のカンボジアを逃れ日本にやってきた中国系ベトナム人。わたしたちは、席の空くまでの間、シンハビールを道路脇で立ち飲みしていた。

新しい店で、遅くまで飲んで食べ、店がはねたあと、店主、奥からウィスキーを取り出し、二人でグラスを空けた。傍らでは、従業員たちが遅い夜食をとっている。客のいなくなった店の空気はなぜかホッとしていた。わたしはこの時間が好きで、しばしば遅めに出かけたものである。

店がはねたあとに居残る習慣は台湾で憶えた。定宿のホテルの地下室、スナック、多くの時間をここで過ごした。夜食をとったり、ピアノの伴奏付きで歌ったり、中国語の予習復習の相手をしてもらったり、ときにピアノの先生や店の女性たちと賭け事をしたりと、仕事を終えたあとの、それぞれの人たちがホッとした時間を共に過ごしてきた。その時間には誰もが本音のでる時間でもあった。

代々木の店にしろ、台湾のホテルにしろ、なぜか客がいてはまずいなかにわたしはいた。酒が入り、もうろうとした感覚のなか、店の営業が落ちているとか、亭主との関係がどうだこうだとか、兵役中の彼が休暇を取ってやってきては喧嘩をしていた女性とか、幕の下りたあとの店は、1930年代のフランス映画みたいだった。

そんなことは過ぎ去った遠い思いで、とおもっていたら、ここで、またもや出くわす羽目になった。KTV、歌手、ママ、出演者はみな同じだ。客と相当飲み交わしたあとの彼ら、一日の終わり、煙草で淀んだ空気、匂いまで同じでだ。ここ廈門も東アジアなのだ。

[ MEMO: 同僚の若き妊婦、先週無事出産を終えた。女の子だそうだ。誰もが男の子だろうと、彼女の顔つきの変化から読んでいたものの、彼女の思惑通り女の子だった。子供はきっと、母親似の、おしゃれ好きな子で、二十年後には、着飾り、母親と競い合って買い物に出かけているに違いない。わたしの娘たちが味わえなかったことだ。ここ廈門でも、わたしはその時の彼女たちを見れることはないだろう。 ]

Sunday, November 11, 2007

[廈門・521天] 愛面子、愛惜、そして悲しき老人かな

先日、同じ時期にこちらにやってきた台湾人と一悶着あった。わたしはここではただ一人の日本人、なおかつ中国語を流暢にこなせない。言い争いをしようにも、口から先に生まれてきたような方々とはとうてい渡り合えない。最初から避けてとおってきた。そんなわたしでも、切羽迫るとキツイ一言が口に出てくる。

事の起こりはこうだ。元ボスがわたしを呼んだ。影のボスの要求に応えてくれと言う。元ボスとは今では部署が違う。本来ならお門違いなのである。しかし答えられる人間はわたししかいないのだから仕方がない。お手伝いをした。このプロジェクト管理をしているのが、かの台湾人。この件を知って彼自らも手を動かし始めた。それを知った元ボス、余計なことはするなと言い争いになったらしい。相当な言葉が行き来したとも聞いている。それもわたしを巡って。

彼、それ以降、突然わたしに対する態度が一変した。名前を呼びつけに、理由も言わず呼び出したり。わたしは争いごとが嫌いだ。仕方なく二人に同じ図面を手渡し説明することになった。ところがである、手直しに必要な情報が彼の手元にあったにもかかわらず、図面を書き終えたところでそれを見せられた。わたしはいたく腹を立て、彼の勝手さを罵った。思わぬカウンターパンチを喰らった彼、ドタドタしてしまった。それ以降、わたしは彼とまともに話をしていない。

こうなったのも、元ボスがわたしを高く評価するのに対し、彼をわたしの面前で非難することがたびたびあり、この件、彼をいたく傷つけていたのだ。さらに、面子を愛する彼、このところの組織替えで、地位が下がり、仕事の内容も限定され、送り迎えの車も取り上げられるらしい。彼は、彼が愛したプロジェクトにしがみついている、と元ボスがわたしに話した。元ボス、「愛惜 ( ai4xi1 ) 」という言葉を使っていた。愛惜かー、日本では今では死語だろうなー。

来週から、空席だった総経理の椅子に新しい人間がつくことになっている。彼が求めてやまなかったこの椅子、今では遠い彼方となってしまった。ある人曰、彼はここを去る決心をしたという。わたしより若いにもかかわらず、はるかに高齢を感じさせるように見える今日この頃の彼である。

リスペクト、ここで働く人間に今必要なのは、この一言だろう。(ヒロシさん、また愚痴ってしまいました。お許しください。)

[ MEMO: 真夜中に近い昨晩、KTVの歌手から電話が入った。明日の会議に出席したくないのでこれからきて指名してくれという。訳がわからないことをいう。さらにおしゃれしてきてねと。彼女も愛面子、わたしの友人は(友人である。彼女の客ではないのだ。)他のコの客とは違うのよ、というところを見せたかったのだろう。

寝酒が入ったところだったし、一昨日の会席でしこたま飲んだこともあり、出かけたくなかったものの、そこは女性に甘いburikinekoである。ステージ脇で、客のいなくなった席に、店の経理やママさんらと雑談を交わしてきた。彼ら、店の売り上げの話や、あの客がどうのこうのと、その日のあれこれを話していった。幕が下りたあとの、わたしの一番好きなひとときである。 ]

Sunday, November 4, 2007

[廈門・514天] 続・漢詩の一文をめぐる厄介な対話

わたしの手元に三種類の「水滸伝」があった。みな翻訳物だ。岩波文庫版、平凡社版、それに吉川英治版。堅く原本に忠実な翻訳の岩波版、読みやすい平凡社版、そしてもちろん面白いのは、こなれた日本語で書かれている吉岡英治版。作者吉岡英治の解釈が入り、原本から面白いとされる部分に強烈に手を加え、更に面白くしていた。この三つ、どれもが「水滸伝」なのだ。

わたしは「水滸伝」をエンターテイメントとして読んでいる。「水滸伝」の作者は不詳だ。もともと民間伝承されていた豪傑話に筋道をつけてまとめたのが始まりだとも言われている。時代が下がると更にいろいろな話を加えてふくらませたのだとも言う。

漢詩をその延長で語るわけにはいかない。唐詩にはれっきとした作者が存在する。読み人知らずはほんの僅かしかない。スカ友の言うように、原文は一つというのは道理である。しかし、時に原文の詮索に困ることもあるのだ。毛沢東が愛読した「水滸伝」と、中国建国以降、共産党が定めた定本「水滸伝」とが同じだったかどうか。

クラシック音楽(といっても、当時のはやり歌のようなものだが)。バッハのゴールドベルグ変奏曲、グレン・グールドというピアニストは、若い頃と晩年と二度収録をしている。聞き比べると全く違う曲のように聞こえてくる。

なんだかんだ屁理屈を並べ立ててみたが、絶対的な基準というのがないからこの世は面白いのだと言いたかっただけだ。(何でこんな事にこだわっているのか、自分でも不可解なのだが・・・)

そんなことはどうでもいい。昨夜、わたしは、この二週間、夜ごと夜ごと練習した当代歌謡曲を、KTVに出かけ、熱唱してきた。気分爽快である。

[ 写真: わたしの好きな「無間道-II」(インファナル・アフェア-II)という映画をインターネットで見た。しかし彼ら、中国語、つまり標準語で話していた。この映画、香港映画であり、もともと広東語でしゃべっている。感じがでない。香港黒社会の雰囲気がない。なおかつ、インターネット上には、標準語の他に、ミンナン語あり、四川語有りと、様々なアフレコ版があった。中国奇っ怪なり。 ]

Saturday, November 3, 2007

[廈門・513天] 漢詩の一文をめぐる厄介な対話

skypeのコメント欄を書き換えた。スカ友が自分のコメント欄に漢詩(こちらでは唐詩、本当はこれが正しいらしい)が書き加えられたのを見、おもわず懐かしい李白の詩の一節にした。一瞬のあと、チャットがやってきた。

スカ友:為什麼不是"望明月",而是"望山月"?(なぜ明月でなく山月なのですか?)

わたしがコメントに書き込んだ唐詩は、李白の「靜夜思」から。詩の全文は、

牀前看月光
疑是地上霜
舉頭望山月
低頭思故鄉

明らかに「山月」とある。えっ、えっ?スカ友の問いかけの意味がわからない。返事に「でででは調べてみます」。スカ友:「調べる必要はない、ここは明月なのだ」。インターネット上で探った結果を見てからわたし:「でも、日本の文献ではやはり山月でしたですー」。

誇り高き中国人のスカ友曰:

但這是中國古詩。你現在學唐詩,是不是應該學中國原版的呢?所以原版的是:"床前明月光,疑是地上霜。舉頭望明月,低頭思故鄉!"
(しかしですよ、これは中国の古詩です。アナタが今勉強している唐詩は原本のものですか?原本では「明月」です!)

と[!」マーク付きで返事が来た。これには[晕](クラッ)ときて、更にネット上で文献を当たってみると、

「・・・この詩は日本では、・・・舉頭望山月,低頭思故鄕。・・・これは、底本の違いや、日本では『唐詩選』(明・李攀龍)を重んずる伝統があるのに対して、中国では『唐詩三百首』(清・塘退士)を重んずるという習慣の違いのため。前者(『唐詩選』)は、盛唐に偏っているため、配慮が必要。・・・」

とある。そーか、二種類出回っているのだ。と、スカ友に伝えると、

「因為有名的古詩一定隻有一個版本。要尊重作者。所以不會出現不同書名,所以詩內容也不一樣的情況。尤其是中國的古詩!」。(なぜなら、有名な古詩には必ず一つの版本に二種類の詩があるのである。作者を尊重しなさい。ですから同じ書名でも、内容は同じではないのである。なおかつこれは中国の古詩であります!)

私たち日本人は、古典というものが、時代と共に内容の一部が書き換えられている事実を知っている。本物の原本がない場合、翻訳者は、注釈をつけてこの件に断りを入れている。ここはどこどこの何々本による、と。ここは中国である。二つの文、二つの解釈は許されないのだろう。

わたしは気分を悪くし、「アナタの意見に従うつもりはない」と送り返した。

しかし、しかしである。例え原文と違っていても、「明月」では明るすぎる。そのとき、李白の置かれていた状況に合わない。わたしは「山月」と書かれた雰囲気が好きだ。だからコメントは書き換えていない。

説教されたなー・・・。

[ 写真: 気分転換にKTVにいくことにした。この歌手と歌の練習でもしてこよう。ここでは、歌い間違えても文句を言う人間はいない。 ]

Wednesday, October 31, 2007

[廈門・510天] 分手

日本で、バードウォッチングを続けているヒロシさんからメールが来た。

「・・・仕事大変でしょうが、仕事や人間関係以外のことも書いて下さい。・・・」

自分でもなぜこれほど人間関係にこだわって書いているのか、時に不可思議な気持ちになるのです。きっと、愚痴をこぼす相手がそばにいないからではないでしょうか。しばらく我慢してください。年寄りの愚痴は、長く、しつっこいのです。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・で、本文・・・

分手( fen4 shou3 )、別れる、恋人と別れる。別れを綴った歌のはなし。

ある日ある晩、クラブのステージで男性歌手が気持ちを込めて曲を披露している。店の女性がささやいた。「アタシの一番好きな曲!」。この一言に、すかさずボーイがわたしに声をかける。「彼に花輪をさし上げますか?」。いわゆるチップ。「OK」。「二つ?」(二百元)。あたし、「一つ」。

この曲、印象に残った。店の女性に曲名と歌手名を書いてもらう。早速家に戻り、インターネットで探しダウンロード。うーん、寂しい曲だ。とても寂しい。ジンとくる。店の女性にショートメールで伝える。「いー歌だなー」。彼女、「どこが?」。わたし、「心が痛む」。会話はそこで途切れた。

男性歌手はステージを下りると、私の席にやってきてお礼を述べた。わたしは店の女性に告げた。「次にきたときは、個室に彼を呼ぼう」。彼女、「歌のレッスンしてもらうの?」。おぼえる価値がある。しかしまだレッスンは受けていない。

会社の若い女性が私の席にやってきて告げた。「アタシ男友達と別れたー」。「オー可哀相だなー、この曲聞いて気持ちを入れ替えなさいな」。わたしは、彼女に、ダウンロードしたかの曲を、メモリーカードに入れ、手渡した。

翌日、彼女がやってきて恨めしそうに話した。「昨日は一晩中この曲聴いて涙流してた」。

この歌い手、酒場のナガシをしながら、テレビのオーディション番組に出ては落ち、落ちてはまた出てを繰り返し、ついにこの曲が認められ、デビューしたのだそうだ。ネクラそうである。名前を陳楚生、曲の名は「有没有人告訴你(あなた)」。阿久悠のいう、歌が空を飛ぶ曲だ。

そんなわけで、このところ、毎晩繰り返し繰り返し聴き入っている。いまではわたしの中で歌が飛びかっている。

[ 写真: 陳楚生。ビデオクリップからキャプチャーしたもの。百度という検索ネットで、日本からでも探せるのではないだろうか。 ]

Tuesday, October 30, 2007

[廈門・509天] 小事情

特殊な事情がありまして、幹部の多くが台湾人、スタッフのほとんどが中国人。もちろん比率は圧倒的に中国人が多い。台湾人に共通しているのが口うるさいこと。私の席のとなり、彼はまだ若い幹部。彼が中国人スタッフを呼び出し、仕事の内容にとやかく言っている。席が遠いので内容は聞き取れないが、どうやら一つのことについて長々と説教している様子。長い、なにしろ話が長い。

ある時、呼び出されたスタッフに一言声をかけてみた。「どう?仕事の内容は」、彼「万全です!」。苦笑するわたしを見るや、彼、態度一変する。突然にわたしの手を強く握りしめ、早口で語り始めた。「小事情( xiao3 shi4 qing2 )、小さな事なんです。こーんな小さな事をとやかく言うんです。それも何度も何度も」。わたしは幹部である。幹部に下手な答えはできない。それを、わたしの苦笑する様に、彼はわたしが事情を理解してくれているのだと、息せき切って話したのだ。

麗江の若造、ここ廈門に来ては麗江のスタッフに電話をかけまくっている。これがまた長い。そして苦情をたらたらと述べている。一度話せば済むだろうと思うも、彼もまた繰り返し繰り返し叱りつけている。そのくせ、こっちに来ると電話代がかかるかかると愚痴っている。当然だろうにと思うも、原因は自らにあるとは思ってもいない様子だ。

台湾人がそうなのか、中国人は違うのか、事情はわからないが、彼らは実によく話す。ああいうとこういう。話が激高して、手が震え出す者もいる。わたしは、彼と話すときはどこを押せばいいか、どの部分にさしかかったら話題を変えればいいか、なぞ理解して話をしている。ただ予期せぬ反応が返ってくることもある。女性技術者に、アナタの書いた図面はこれこれこうで、だからこうなって、結果こうするべきではないか、と説得しているうちに、彼女の目つきが変わってきたりして、ありゃまどうしましょう、なんて事もあったりした。

あれこれ愚痴らしきことを書き立てているものの、やはりわたしは東アジアの旅を、ひと一番楽しんでいるのかもしれない。

[ 写真: 今日もまだ写真ありません。日が短くなり、帳が下りたと思ったら、夜空に満月が見えていたのは、確か数日前だったか。ムーラン・ルージュだった。でも写真はありません。 ]

Monday, October 29, 2007

[廈門・508天] 先行き

この一ヶ月、明日はどうなるのだという状況を切り替えるに十分の時間だった。トップの、あらぬ言いぐさの犠牲になったり、緊縮財政へと、表向き動き始め、不可解な体制と、人員整理、この十月末までに何人もの方々が去っていくことになっている。気分は最低、仲間うちの顔つきも目つきも正常ではなくなっていた。

組織替えと共に、わたしの仕事量は激減、それを見ていた仲間の一人、「仕事なければさっさと去るけどなー」と聞こえるように陰口をたたく。その彼、今では本来の仕事がほとんどなく、やらなくてもいい他の人の仕事に手を出している。アナタの仕事ではないではないか、と話すと、ボソッと口を開く。「財務なんてできないんだよなー、大口だって叩けないし・・・」。去るべきはキミではないのかな。

麗江の若造が煙草を吸おうと外に引き出す。グジュグジュしているので「何?」。ボスがわたしの書いた農村計画の考察を高く評価した。全中国農民ナンジャラ大会に提出したかった、といっていた。なぜ早くオイラに見せてくれなかったのだ、と愚痴る。知るか、オマエがこの計画、我が社には厄介者だ、金をせびられるだけだ、ボスはそういっている、検討は適当にしといてくれ、といったではないか、と言い返した。みなボスの一言から抜けだせられないでいる。

あたしは好きな仕事ができれば、どんなものでもいいのであり、農村計画の考察は、あたしのライフワークの延長線上だったし、視点を開発会社の立場で見てみるとどうなるのか、という手法で分析しただけなのだ。ボスがこの論文のどの部分を評価したのかわからない。おそらく、誰も、”会社にとって”、という視点で物事を見ていなかったのだろうと思っている。日本ではごく当たり前のことが、ここではそれが見えてない。みな、”アタシと上の人間”、それに腐心している。「拍馬屁」 ( pai1 ma3 pi4 )、馬の尻に手を合わせる、おべっかだけが全てなのだ。

あたしが会社を去るという気配は消え去ったようだ。一気に仕事量が増え始めた。

[ 写真: 今日も写真ありません。池の鯉が総入れ替えし、小さな小さな鯉の群れを撮ろうかと思っていたものの、見とれて撮影を忘れてしまいました。 ]

Sunday, October 28, 2007

[廈門・507天] 持続させることの難しさ

ひと月以上の空白。去年の空白と違い、今年は別に特別な話があったわけではない。イヤ、むしろ小さいものの、いろいろな出来事に有り余るほどでくわしていた。夏の、くたびれたような暑さと、長引く喉の痛み、そして単調な毎日。この空白のひと月は、そんな状況をいかに消していくかが、もしかしたら頭の片隅にあったのかもしれない。それにしても一つのこと、たとえばblogを持続させることのなんと難しいことか・・・。

賄いオバサンを雇い、余計な生活感を軽減させたり、週末にはガッコの先生と茶館で雑談をしたり、時に大枚をはたいて夜の町へと出かけてみたり、日本・韓国・中国のはやり歌なぞダウンロードしては、仕事中イヤフォーンをかけて聞いてみたり・・・。何かと変化のある生活環境を積極的に考え、実行してみた。

この試みは成功したのかもしれない。ある時、二人の女性、昔の秘書とまもなく臨月の若き妊婦から、「若返ったみたい!」と、ほぼ同時期に言われた。変化が若返りを演出するとは考えても見なかった。ほー、適当な刺激って必要なんだ・・・。シンさんが、日本からのメールでさかんにわたしに伝えてきたことは、「運動したまえ!」。キミに不足しているのは運動だ。運動は試みなかったものの、カラオケで歌いまくるのも運動の一部だと思うことにした。

台湾人が言うように、オマエにはプレッシャーがない、と、自らの至らなさを棚に上げ、わたしを見つめるのを横目に、プレッシャーとは、自ら消し去ることが必要なのだ、たまには自前の金でカラオケぐらい行ってみろ、と言いたいほど、彼らの表情はどんどん暗くなってきている。人から受けるプレッシャーを傍らに置き去ることもできないでいるのだ。

ワォ、なんと愚痴の多いこと!

おっと、一言大事な話を言い忘れてしまった。新しい中国語のセンセが来週からやってくる。話はできるものの、発音がいい加減だったり、言い回しがめちゃくちゃだったりと、オマエは一年以上ここにいてなーんもマスターしていないではないか、という台湾人の言いぐさへの対応策だ。確かに自分でもそれがわかってきたので、カラオケ屋で新しい曲を披露するため、歌詞を正確に発音できるよう、日々訓練に励んでもいる。昔の秘書が四六時中諭してきたように、口元をはっきり変化させてしゃべることも始めた。

[ 写真: ありません。このところシャッター押していません。今後この件も積極的にやってみます。 ]

Saturday, September 22, 2007

[廈門・471天] 気が楽になったこと

前回、賄いオバサンが来るようになったことを書いた。おかげで帰宅すると料理がすぐに出てくる。不思議な感覚を味わっている。そんなことを期待したことなぞいままでなかったが、さすがに一人の生活が長引くと、いいものだと思ってしまう。多くの方々がそうしてきたのだろうが、勝手気ままに暮らしてきたわたしにはなかったものなのだ。

オバサン、五十ちょっとすぎ。北の都市で、国営会社に働き、定年を迎え、亭主に暖かく綺麗な都市での生活を提案するも、断られ、離婚届を出して廈門にやってきたらしい。わたしにとって、ある意味危険な存在である。我が家にやってきて二日目、どうだろう二人は相性がいいかどうか試してみては、とお誘いを受けた。いや、実に自分の意見をはっきりと表現する。合衆国の韓国系アメリカ人、台湾にやってきていた中国系アメリカ人、彼らも意思表示がストレートだった。その分対応に苦慮せず、付き合いやすくてよかった。

ちなみに、国営会社の定年は、男六十女五十だそうだ。退職後一般の方々はどのような毎日を過ごしているのか聞いてみた。子供と住んで、孫の面倒を見、小区(コミュニティー)の仲間同士でバトミントンをしたり、麻雀をしたりなどなど・・・。

定年かー、どんな感覚なのだろう。

まあそれはさておき、その後、オバサン、普通に対応してくれている。会社から戻って、暇は十分にあるのだが、炊事洗濯家事全てを一人でこなすのは何かとおっくうだし、かといってほっとくのもいやだし・・・、オバサンの存在でわたしはかなり気が楽になった。それになにより無駄遣いが少なくなった。食材を無駄に買い込むこともなくなったし、残り物もしっかり使い回してくれるし、仲間と値の張る食い物屋に出かけることも今のところない。仲間に声をかけ、家で食わないかと誘い込む。悪くない今日この頃である。

[ 写真: 部屋のテラスから見下ろすとこんな感じ。古い廈門の残る数少ない街区。オバサンはこの一角で共同生活をしている。右側斜めに走る街路の両側は魚介類専門の市場。夕刻には買い物客でごった返している。オバサン、家に来る前ここで食材を買ってくる。安いのだ。 ]

Tuesday, September 18, 2007

[廈門・467天] 書きそびれていたこと

この一ヶ月、書きそびれていた部分のメモ・・・

・先日韓国の歌手、ハ・ユスン嬢の消息が途絶えているらしいといった矢先、セカンドシングルのMVが登場していた。AVの雰囲気を濃厚に漂わせていたものの、曲自体はどーってことがなかった。また、「Question」のMVは韓国で放映禁止になっているらしいと記したが、このMV、別バージョンがあった。基本的に変わったところはないが、ぎりぎりの部分が長めに映っていた。

・会社の内部組織をガラガラポン、と始まった騒動、いっとき人があちこちに移動したものの、結局また元に戻ってきた。一体何だったんだということだ。影のボスの指令で動いていた人間、彼らですらそう感じている。わたしが「女がいるいないを探って報告することに何の意味があるんだ、そんな部門なぞなくしてしまえ!」と文句を言ったら、いわれた本人、「そうだよなー」としきりに考え込んでいた。まあ、脅しをかけてきたと思えば理解もできるが・・・。

・八月はひどく落ち込んでいた。人事騒動に巻き込まれたり、ひどい咳に長い間悩まされたり、暑さと体調不良で外食する気にもならず、夜食のメニューは自炊で二種類、という毎日を送っていたら、更に落ち込んでいく気がしてきた。同僚でカミさんが仕事の関係で香港住まいの若造、デブチャン、ダイエットに夜の町を歩き回るという習慣をつけていた。それに付き合って歩いていたら体調もよくなってきた。さらに一緒にあれこれ異なるメニューの食い物屋に出入りしていたら元気が出てきた。

以前は元秘書が毎日のようにこれでもかといっぱい総菜をつくってくれていたものの、諸般の理由で解任して以来半年、実に単調な生活をおくっていたことになる。今更ながら、食い物は大切だと、人に紹介してもらい、賄いのオバサンに来てもらいはじめた。それに会話の練習にもなっている。オバサン、北の人間、巻き舌である。今までは南の人間との会話がほとんど、台湾人に似た話し方、理解しやすかったが、北の人間のはなかなか解らない。始終反復してもらっている。

この先どれほどここでの生活が続くか解らないが、とりあえず軌道修正ができつつある。

[ 写真: 古ネタ写真です。九月八日は花火の日。昨年はどこかに出かけていて、家にたどり着く前、轟音を聞かされ驚かされた。今年は家の寝室から。高層マンションの影から火の玉が飛び出してきた。 ]

Monday, September 17, 2007

[廈門・466天] 自拍

最近わたしは中国版youtubeに凝っている。家に戻り、一人パソコンに向かい、面白ビデオを探し回っている姿は、自分で思い浮かべても異様だ。お気に入りはもちろん「自拍」。my videoのジャンルだ。youtubeの影響はここ中国でも大きい。多くのウェッブサイトも自拍ものに力を入れている。電脳に若いうちから慣れ親しんでいる若者たち、積極的に投稿してくる。特徴的なのは、若き女性たちの投稿。自らを売り込みたいためか、惜しげもなく彼女たちの知られざる側面を覗かせてくれる。

意図的な演出で場を盛り上げてくれるお嬢さんもいる。シリーズものである。彼女、自らを「愛人」だと称し、ポップな曲に合わせ、インターネット先の聴衆を扇情してくる。全四部。顔は出さない。プチプチとした、いかにも若そうな肢体を、ジャネット・ジャクソンばりの振りで肉体を露わにする。このシリーズは大当たりしたらしく、シリーズ終了後、このビデオ、実は登場者は二人で、わたしはその片割れと分析してみせる子が登場したり、地方のテレビ局が特集を組んだり・・・。ところで彼女、もう一年間姿を現わしていない。どこで何しているんだろう・・・。

もう一つはMSNやSkypeでのビデオチャットものの投稿。チャットの模様を録画したものを投稿してくる。相手に了解とっているのか、脇で見ていても心配になってくる。ビデオカメラの前で、イヤイヤ胸元を開いていく様なぞ、オイオイどうなっているんだ、このビデオ一生ネット上をさまようんだぞ、など人ごとながら叫んでしまう。それにしても裕福そうなアラブ系留学生はかわゆかった!

ここ中国の現状を憂慮するも、インターネットが確実に新しい表現媒体として機能しているからすごい。時にはやりすぎの場面もしばしば見られるが、官憲が潰しても潰してもまたどこかから顔を出してくる。廈門でこの夏おきたデモのさい、政府が携帯メールを使ってデモをコントロールしたように、インターネットと共に、この二つは情報操作の最も有効な手段となったのだ。

しかしこれらのネタ、あたし、無理して探し出しているわけではない。ビデオニュースを見ようと、安部さんが辞任した会見シーンを見ようと、ウェッブサイトを開けば、目の前で見てくださいと誘っているのだ。日ごとメディア研究に勤しんでいるといいたい。えらいえらい、いい結びになった。

[ 写真: もちろん私のお気に入りなソン・ヘギョの予告編もある。彼女が脱いだというので話題になったが、場面が暗すぎで判別不能、掲載はあきらめた。 ]

Sunday, September 16, 2007

[廈門・465天] ヒップホップだって聞いておるのだ!

たまには買い物に出かける、買い物に付き合う、デパートだって繁華街だって見て歩く。まあ一人で、というわけではないが、まもなく臨月を迎える若き妊婦が、出産後に着る衣装を夢見るのを手伝ったりもする。そんな場所でしきりに流れていた軽快な一曲を偶然ネット上で見かけた。韓流ヒップホップのライブだ。キュートな彼女を見て、わたしは気に入ってしまった。早速下載(download)。家で、職場で、イヤフォンをつけ、聞き、見ている。jijiだってヒップホップは好きなのだ。

早速日本にご滞在の韓流師匠にその旨伝え、ビデオクリップを送った。師匠は知らなかった、彼女を、この曲を。知らなかったが、わたし同様、即座に気に入り、ついつい繰り返し聴いてしまった、と返事が来た。歌手の名前が知らなかったわたしに、師匠は丁寧に解説をくわえてくれた。このカワユイ歌手、一体どのようなお嬢さんなのか知りたくなった。いつもの癖である。自宅に戻っては、真夜中までネット上をさまよう結果となる。

「ハ・ソヨン-AV女優ハ・ソヨン歌手デビュー」。
http://franklloyd.paslog.jp/article/161519.html
と教えてくれたblogがあった。

名前を [ハ・ユスン 하유선 河佑善 Ha U-Sun] 。曲名は [Question] 。のりのいい曲と、軽くAVの雰囲気を盛り込んだ振り付け、そしてなにより笑顔がいい。

ライブはこちら:
http://jp.youtube.com/watch?v=JGqKpmubhTo
MTVはこちら:
http://jp.youtube.com/watch?v=Wgmqo2zaUcs
この曲に合わせ、カリフォルニアあたりで腰を振る日本人らしいお嬢さんのビデオはこちら:
http://jp.youtube.com/watch?v=J8Du7phtjQI

ところが、ハ・ユスン嬢、それから一年、ウェッブ上には現れていない。それに、ビデオクリップ、韓国では放映禁止になっているらしい。あるblog上でも語られていたが、AV嬢が転職で成功するのは至難の業だそうだ。日本では飯島愛氏だけだとか。今でも儒教感の強い韓国ではなおさらなのだろうか。もしそうだったら至極残念なことだ。みなこの曲を聴き、キュートな彼女を見、(昔のAVのDVDは放っておき)ミュージックCDを購入し、再び魅力溢れる踊りが見れるよう、韓国に圧力をかけてほしい。jijiのささやかな夢であります。

(曲自体は一年以上前のものであり、古ネタだったりしている可能性があります。ただただ私めが無知だったのかもしれません。その節はご容赦ください。)

[ 写真: 人間の根源的な刺激は歌と踊りに反応するものであり、人類発生以来、この二つは切っても切り離せない関係で・・・どうでもいい、一度見てほしい。 ]

Thursday, September 6, 2007

[廈門・455天] これがバブルでなくてなんなのだ

二週間前の金曜日、密かに会社を抜け出し廈門空港に向かった。蘇州を訪れるためだ。昼飯を終えると、運転手が待っていた。日曜日に戻るよ、というと、では出迎えます、イヤいいよ家族サービスしなさい、イエイエ構いませんです、ハイ。特権乱用である。

上海の虹橋空港では、蘇州のオバサンが待っていた。本来なら、運ちゃんだけだったはずだ。彼女、この機会を利用して、久しぶりに上海の友人宅で美味な食事を取ることにしていた。市内ど真ん中の高級マンションでテーブルを囲んだのは、五十近いというのに肢体完備、美しき肌つやの主と若きご亭主、仕事に追われながら駆けつけ一杯、白いご飯をほおばっていった四十過ぎで、香港で色違いのベントレーを四台購入、アルマーニの服を棚の端から端まで持って行ったという方。そして我々二人の計五人。

ここの主の素性は聞かなかったが、部屋のあちこちに、有名人と一緒に写った写真が所狭しと目についた。コン・リー、チャン・ツーイー、トニー・レオン、ジャッキー・チェンなどなど・・・。蘇州のオバサンが語ってくれた。部屋の主を除いて、集まった人間はみな四十から四十五歳、八十年代の解放政策と共に時代を歩いてきた人たちだという。そして「時代」が我々に特別な機会を与えてくれた。その結果、多くの富裕層がこの世代に生まれたというのだ。

このお宅に出向く前、時間に余裕があったので、新天地の再開発地区に入ってきた。古い、上海形式の住居を利用したショッピングモールである。四年前にも来たことがあったが、今では質のいいお店と洒落たデザインとで、上海の観光名所になっていた。開発当初、テナントは僅か二軒、今では店を手に入れることも難しいという。小綺麗な洒落たホテルも完成し、予約は一年以上先まで埋まっているらしい。

上海中心地にあって、新天地を取り巻くマンションにしろ、店にしろ、何年前はいくらだったものが、今では十倍以上する物件だらけだと、蘇州のオバサンが語ってくれた。投機的な面も大きいが、だからといって、土地の下落もなく(土地は借地権という中国の事情がある)、人口の流入は止まることなく、外地(上海以外の場所)の金持ちはビジネスチャンスが転がっている上海を目指してやってくるし、高級物件を言い値で購入しているし、あと十年はこの状態が続くこと間違いないと話してくれた。

絶対旨いといわれた割には、甘口の料理が多く、わたしには一寸という感想を述べて蘇州に向かった。蘇州まで一時間あまり、車中でも、彼女はいっときといえども携帯をおくことがなかった。ビジネスチャンスを逃すことはないのだ。その横顔を見ながら、四年前に初めてあった彼女、てきぱきと段取りを組み、いうことはいう、非常に魅力的だった事を思い浮かべていたが、四十をすぎ、一寸顔の肉が落ち、目がくぼみ、いささか期待から遠くなっていた。

[ 写真: 翌日第一目的の蘇州博物館を訪れた。外観の使われた花崗岩は気にくわない。表情が硬く、蘇州という場所に合っていない気がした。北京の香山飯店のように、厚い瓦を加工したもののほうが合っていると感じた。ところが、あとで知ったのだが、現在の香山飯店、白い外壁を、瓦の粉末が雨で流れ出し汚していた。これで花崗岩を使ったわけが解った。 ]

Wednesday, September 5, 2007

[廈門・454天] 空白

確か昨年もそうだったような気がする。一ヶ月全くblog更新をしなかったことが。今回の理由はいろいろあるものの、決定的な言い訳にはならないことばかりだ。blogも、中断が長引くと、それなりによしとしたりしてしまう。しかし拙いわたしの文章を読んでいてくれる人もいる。そんな方からメールが届いた。”・・・どーしている?と思う人はそれなりに存在している・・・”のだよと、心配していただき、切っ掛けをもらったので、改めて続けてみることにした。

・言い訳その壱・・・確かにひと月以上前、激しい咳を伴った風邪を引いた。これが意外と長引き、実は今でも喉が痛む。咳はすでに引いたものの、いい気分ではない。一寸空調が効きすぎる場所に長くいると喉が痛んでくる。腫れているのだ。みな医者にいけという。医者の息子である。自分の体ぐらい自分で解るとうそぶいている。

・言い訳その弐・・・暑さのせいだ。昨年は何とか乗り切れたのが、今年はいささか事情が違う。帰宅して食事を取るとすぐに横になることが多い。そのまま真夜中まで眠りこけることも少なくない。体温調整がうまくいかなくなっているのだろう。年のせいだ。食欲はあるものの、何かに集中しようという気力も衰えている。これは会社の仕事のやり方が原因だ。

・言い訳その参・・・会社の組織替えが一方通行で進められていた。筋の通る展開なら納得するものの、会社内での覇権争いみたいなものだったりするから疲れる。特に中国語を母国語としないわたしは、それだけの理由で、紙風船のようにあちこちたらい回しされた。いっとき、ボスの命令だろう、仕事上で誰もわたしを捜さないときがあった。結局、わたしでなければできないことが多すぎ、また声がかかるようになった。疲れるのだ。

・言い訳その四・・・実にこの会社は面白い。脇から見ている時間が他の人間より多いので、なおさらおもしろさがよく見える。同じ仕事をする部門が二つ存在している。一つのジョブを二部門が手をつける。お互いを牽制させるつもりらしい。その分物事の決定も二重手間になる。そのくせ、金にセコい。時間の無駄、金の無駄、結局あれやこれや出ていくお金は同じなのだ。嫌気がさす。だから疲れたのだ。

・言い訳その五・・・人事異動が頻繁に行われる。それに伴い、権謀術策が始まる。わたしなぞ、ひとのいい人間は簡単にこの餌食にされる。”・・・あいつはわたしが辞めれば一緒に辞める。日本に帰って会社を再開するそうだ・・・”なぞいうひとがあれば、できるわたしを絡めて辞職を避けようとするものもいる。”・・・彼が不十分な中国語を、わたしが補って、二人組んで仕事を進めるのはどうであろうか・・・”。

そんないやなところなら辞めろって。声が聞こえてきそうです。わたしがそこまで踏み切れない最大の理由は、廈門があまりにもすばらしいから。生活環境として、今のわたしに最も合っておるのです。わたし自身も厄介なのだ。

[ 写真: ということで、気晴らしに蘇州まで出かけていた。四年前、ここで仕事をしたとき厄介をかけたオバサンが、いろいろ段取りしてくれ、最高の週末を過ごしてきた。詳細は後日。写真は蘇州博物館を設計したI.M.Peiさんが、博物館の敷地内にご自分で宋時代の庵を自分なりに解釈して建てたもの。 ]

Tuesday, August 7, 2007

[廈門・425天] ん?博物館で絵画展


風邪もひとまず収まった、というので先週末の土曜日、こちらのガッコの先生と博物館に出かけてきた。ガッコの先生と日本においででインドフリークの我が畏友シンさんとは、先生が日本留学中の友人。はるか昔にわたしとガッコの先生、シンさんの展覧会を廈門で開いてみてはと話が盛り上がったことがあった。シンさん、その話しに半信半疑の様子だった。

先生はこちらで顔が広い。あらゆる分野で知人がおいでだ。どういうきっかけだったのかは知らないが、博物館の館長さんと展覧会の話を進めてしまった。では、というので出かけてきた。出かけたのはいいが、場所は現在廈門市政府が建設を進めている文化中心のまっただ中にある。今年の三月、すでに開館。といっても展示場はまだ内装工事中。建前上、オープニングは済ませたということだ。

館長さん、この博物館、もともとコロンス島にあって、移転に際して抜擢された方。その前は骨董を扱って名を知れた方。いわゆるビジネスにたけた方というわけだ。博物館の今後の運営のノウハウを買われたに違いない。月給は公務員扱い、決して高額ではない。それでも引き受けたのには、きっとわけがあるのだろう。

展覧会の件はさっとすまし、話題はもっぱら廈門本島のとなりで進められていた化学製品製造工場建設にまつわるあれこれ。わたしの会社と無縁ではない話。実にわたしの会社の内情に詳しい。いろいろと教えてもらった。

しかし、この博物館のとなりでは、やはり立派な美術館も建設中。絵画の展覧会ならこちらのほうが筋だと思うのだが、それはそれである。それに展覧会予定の場所はやたら広い。作品展数百点以上が条件。シンさん、いつもはささやかに、目黒の小さな展示場とか、横浜山の手の画廊とか、瀟洒な会場を選んで開いていた。

さて、この話どう転んでいくのか、大いに期待したい、と思うも、センセと館長お二人、投資用にマンション購入したいのだが、という話が盛り上がり、結局、昼食をご馳走になったあと、マンション見学と相成ったのであります・・・。

[ 写真: 美術館も図書館も科学技術館も博物館も表面はガラス張り。似たような建物だ。どれがどれだか全く特徴がない。サインボードを見なければ、何が何だか全く解らない。それにしても壮大な開発である。 ]

Monday, August 6, 2007

[廈門・424天] 踏んだり蹴ったり

喉が痛いな、と感じたのが二週間以上前のこと。それからひどい咳と痰に見舞われるまで一週間を必要とした。その間、体がだるく、あれこれ動くのもおっくう、物事に集中できないでいた。そして巡ってきた突然に襲う強烈な咳、そして切れない痰。これはもしや・・・重い病ではないかとさえ思ってしまった。

思えば思うほど病は進行する。そういうものなのだろう。病はまさに気から。結局会社を二日間休んだ。家でただただゴロゴロと眠りこける。徐々にだが、体調は回復、週末には人と会うことができるまでになった。しかし強烈な咳のおかげで、喉の血管を痛め、鮮やかな血が混じった痰を見るのは気持ちのいいものではない。

今のは踏まれた部類の話し。次にお話しするのは、強烈に蹴られた話し。

ある日元ボスから呼び出しがかかった。元ボス、影のボスからプレッシャーを受け続けているという。暗に会社を辞めてはどうかということらしい。話の内容は、大筋あちこちから聞かされていたので驚くものではなかった。ただただわたしは、上部の考えやおやりになることには関わりたくありません、と答えるのみである。

そんなわたしの素っ気ない対応に腹を立てたのかもしれない。ある日、ある人から連絡が入る。「会社を辞めて日本に戻るんですって?」。話の出どころは元ボス。死なば諸ともということらしい。そういえば先日こんな話をしていたっけ。「ホテルの董事長が辞めたとき、彼女が連れてきた幹部はみな辞めさせられた。この会社はそういうところなんだよ」と。まあ、わたしを引き込んだのは元ボスだし、筋を通せば諸ともかもしれない。一寸面倒くさい展開になってきている。

辞めるのもよし、留まるのもよし。しかしこちらに来てまだ一年一寸、ここを離れるには早すぎる。先日お会いしたガッコの先生、もし何かあったら廈門随一の開発会社をご紹介しますよ。そのもし何かあったらが現実味を帯びてきた。しかしわたしには面倒くさい話なのだ。それに年を取ってガラガラと環境を変えるのは体によくない。死期を早める。まだここ中国の片田舎で過ごしてもいないのだ。猫と暮らしてもいないのだ。

[ 写真: 会社の医務室、女医さんが選んでくれた処方薬。飲むタイミングを間違ってばかりいた。帰りのバスで同席した女医さんに、まだ喉が・・・と伝えたら、彼女、煙草辞めたら(医務室に)いらっしゃい!と事も無げにいわれてしまった。でも親身に考えてくれているんだと思うことにした。 ]

Saturday, July 28, 2007

[廈門・415天] 没有好消息

日本で避暑生活をおくっている方からメールの返事が届いた。「咳コホンコホンのジジイはゴメンこうむりますデスヨ!」と。なにしろひどい咳が出まくっている。喉をやられるような風邪は、今まで記憶がなかった。それがこちらに来てからは、風邪というと喉。空気が悪いのか、それとも化学プラントから流れ出る廃棄の影響か。

一人孤独な生活をおくっていると、そんなときには世話を焼いてもらえる人間がそばにいてほしくなる、と気軽に書き込んだら、「私には世話?面倒見てくれるイケメン先生達がイッパイいるから彼らに嫌われ無い為にもせっせと磨いております!」と事も無げにいわれてしまった。最後には、「もう少し明るい前向きなニュースをお待ちしております!」。

そういわれても、このところ明るい話しも前向きな話しもないのだ。憂鬱な話しだらけなのだ。その上この暑さ、うだるような暑さ、へばりつく湿気、何とかこれらを振り払おうと、老頭子の誘いにのって、久しぶりに珈琲店に出かけてきた。気晴らしのつもりが、やはりここでも怖ろしげな話ばかり語ることになってしまった。没有好消息である。長い人生、ときにはこんな時期もあるのだ、なぞ思ってみている。

そういえば、全く関係なく話が動くが、先日、サハリパンツを買った。軽く肌触りも履き心地も良さそうだった。一つ日本から持ち込んでいたが、換えがほしかったのだ。早速足を通してみた。暑苦しい。百パーセント綿だぞ、なぜなんだ。仕方なく日本製に履き替えた。厚手の生地だが、すっきりする。なぜだろう。あーやはりいい話はないなー。

おっと、今日は土用のウナギの日ではなかったかな・・・。

[ 写真: 出かけることもないので、インターネットからあれこれ写真を探し回っている。この写真は古い。張芸謀とコン・リー。どこかの映画祭でのショットらしい。わたしはこの二人がなぜか好きだ。 ]

Friday, July 27, 2007

[廈門・414天] 美麗人生

河北のスカ友は、blogタイトルに「醜い豚小屋」、ニックネームに「美麗人生」。相反する言葉で何かを語ろうとしている。若いからできることかもしれない。わたしなら、醜い豚小屋にどっぷり漬かってしまうところだろう。

廈門に来た目的が何だったのか、この一年考えたことはなかった。それがこのところなぜか反芻するように登場する。面白い仕事、一寸余裕のある生活、東アジア最後の旅・・・。読めば美麗人生そのものかもしれない。しかし現実は豚小屋だった、という実感か。

わたしは三国志を読んだことがない。多くの人が面白いという。何か権謀術策の雨あられのような感がしないでもない。だからいやなのだ。しかしここは中国である。三国志を知らずして人生を語るなという現実に直面してしまった。

一人の人間を陥れるための権謀術策、一つの部署がそれに全力を挙げた。しかし、陥れることはできたものの、その影響は大きすぎたようだ。親密な人間関係、楽しげな会話、協力し合う姿勢、そして本来の目的である仕事を効率よく進めるはずの手入れはできなかった。むしろ悪影響の方が大きかった。打ち合わせ内容が伝わらない、全ての案件の行程までもが狂ってしまった。そんな様をみて、陥れられた人間は、密かにほくそ笑んでいることだろう。ざまあみろと。

その影響で、わたしの部署が吹き飛んだ。まあ、本来おかしな系列にぶら下がっていたので、正常に戻ったといった方がいい。わたしは席を失い、昔の系列に戻ることになった。いざ戻るとなると、相応しい場所がない。仕方なく、デスクの配列がえに手をつけた。手をつけてみると、今までがなんとデタラメだったのか、驚かされた。

いやいや、近頃何か気力が萎えたのは、暑さのせいかと思っていたが、原因は他にもあったのだ。

[ 写真: 中国トップモデルの変わり種写真。「新風潮」とでも訳すのか、ウェッブ上のタイトルから見つけた。こんな調子でアジアカップを戦っていたら、きっとサウジなぞに負けなかっただろうに・・・などと妄想してみた。 ]

Thursday, July 26, 2007

[廈門・413天] 何もかも面倒だ

私は暑さに弱い。部屋の中だろうが、木陰の芝生だろうが、暑いとやたら眠くなる。今年の廈門は異常に暑いらしい。部屋の中は人が溜まるといっぺんに空調が効かなくなる。先日の会議だってそうだ。ホテルの管理システムについてプレゼンを聞いている最中でも、気がつくと説明の頁が先に進んでいたりする。一瞬気絶しているのだ。食欲もどこか出かける意欲もなくなっている。面倒くさのだ。

・このところ、若き妊婦と若き人妻が、私をあれやこれやからかうのだが、どーってことない話なのに、やたら気に障る。構わないでほしいのだ。それでなくてもこの暑さだ。

・暑さが手伝って、健忘症にもなっている。会社でやけに尻が軽いなと思いきや、財布を忘れていた。

・空調機の調節が旨くできずに風邪を引いた。会社の医務室で薬をもらい、女医さんから薬を飲む時間について何度も何度も念を押された。食前食後とあるのを間違えた。これも暑さのせいに違いない。どれもこれも面倒だ。

・まな娘にメールで手紙の転送が確実にできているか確認した。強烈な文句が帰ってきた。転送していないのは電話なのだ。暑さでボケが回っている。

・夕食の準備で料理の手順を間違えた。これも暑いからだ。

本当に暑いのです、今の廈門は。外に出てクラッとくるぐらいならまだしも、ドバッと汗が噴き出す。これがあと四ヶ月も続くのかと思うと、ガクッとくる。ここまでくると、快楽なぞ望む気もしなくなる。ビールの一口だって望まなくなっている。あとしばらく、体は休め休めさせながら動かないと、頭は適当に働かせないと・・・。

[ 写真: しかしこいつ=昔の秘書は暑さも関係ない。ヒョコッと家に現れては、おしゃべりして帰って行く。本心は分からないが、表面的には幸せそのものの表情だ。 ]

Tuesday, July 24, 2007

[廈門・411天] クラブカラオケサウナに茶館

廈門滞在一年以上、悦楽を提供する場を訪れたことがなかった。一度は覗いてみたいものだと思っていても、事情通でもなし、誘ってくれる人間もなし。要は周りの人間がケチなのである。ケチが悪いわけではないが、ときにはバカ騒ぎもいいと思うのだが・・・。

ここ数週間で、なぜか急にカラオケとクラブへと足を運んできた。事情通が誘ってくれたのだ。カミさんが里帰りしているときにしか、夜出かけることができない。一挙に店に出かけたのだ。不満解消ではないだろうが、違う世界もまたいいのだと、思っているに違いない。

廈門随一のカラオケ店は、エンターテイメントはここしかないという。それだけ自負しているだけあって、支払いは破格である。外国人といっても、そう易々と出かけられるものでない。そこで、先日はトップランクから一段落とした店に顔を出してきた。ステージあり、ボックスあり、個室あり、と一応揃っている。トップとの違いはスケール。こぢんまりとしている。ステージ上でダンスも歌もあるものの、学芸会の域を出ないが、そこはそこ、雰囲気は出している。なにしろカジュアルなのだ。気軽なのだ。

ホールは天井も低く、設備の配管はむき出し、黒くペイントが塗りたくってあるだけ。大昔、流行の先端は新宿からという時代に登場したディスコに似ている。店の女性もやたらと若く、私についた女性はなんとまだ高校生、十八歳、この九月に卒業予定という有様。ホールのボックスには、手ごろな価格も手伝ってか、若造の姿が目につく。いやほとんどが若造であり、白髪頭のjijiなぞ見当たらない。そういう人間は個室で静かにマイクを握っているのかもしれない。

週末に事情通の家を訪れた。彼が話してくれた。この手の店は、他にもいろいろあって、カラオケの他にも、いわゆるナイトクラブ、それにサウナ、そして茶館でも特別なサービスが行われているという。中国茶をたしなみながら、となりに座った女性との会話を楽しむこともできるのだという。茶館では、トランプあり麻雀ありなぞなぞ、なんでもOKなのだそうだ。

彼はお茶を点て、自分の名前をもじって「クラブリーへようこそ!」と。私はすかさず「女性なしのクラブですねー」。彼即座に答える。「カラオケ店のママに連絡入れてすぐにハケンしてもらいますよー」。続けて、「週末退屈でしたら私に電話ください。誰か行かせますから」。

ここまでくると、私とは全く違う世界だ。知らない世界だけに、味をしめたらハマってしまいそうだ。くわばらくわばら(死語だなー)。

[ 写真: 小型電池で動くリモコンヘリ。ホテルの軽食で食事をしていると、仕事はできないが、この手に目のないデブチャンが持ってきて、ホテルのアトリウムで遊んで見せた。直径僅か二十センチ足らず、正確に離着陸ができる。リモコンも十メートル程度はコントロールできる。優れものだ。早速彼に入手してもらうことにした。夜中に一人遊び、女性が傍らにいなくても退屈することはない。 ]

Monday, July 23, 2007

[廈門・410天] 雑記の続きの続き

・この夏の暑さは、本社の庭園の池の鯉に大きな影響を与えた。五月に気温が上昇、池に大量の藻が発生、呼吸困難になった鯉が数多く死んでいった。会社は、池の循環方式を改善し、水温の上昇を抑える改修工事が行われた。ようやく鯉は戻ってきたものの、馴染めない何匹かが消え去り、代わりに幼魚が今では放されている。

・暑さの影響だったのか、会社の組織に変動が起きた。組織の運営を正常に動かそうと、一人の人間からその職を剥奪する試みが動き始めた。権力争いが頂点を迎えたわけだ。結果、私の所属する部門から、私の課がなくなった旨、通知書が出た。つまり私の立場は宙に浮いてしまったことにになる。そんな私をみて、麗江の若造は、皮肉混じりに私に声をかけた。「昨日はよく眠れた?」。

・私は答える、「よーく眠れましたよ」。なぜなら、この件が書類になる前、すでに私の移動する先は決まっており、なーんも心配する必要は私にはなかったからだ。この動きを仕切った人間が私の耳元で早速とささやいていたのだ。わたしは元に戻ったというだけのこと。厄介だった二人ボス体制から抜け出したことになった。私は麗江の若造にそっと語りかける。「ある部門の人間が言っていたぜ、麗江の案件は問題が多いぞ、と」。かれ、がっくりとしおれきっていた。見るも哀れであるが、年上の人間をコケにしようとする際には注意が必要なのだ。本社の人間の強み、人の話に聞く耳持つ強みを発揮できたわけだ。私も意地悪になったものである。ここではそうでもしなければ、何をされるか解らない。

・元ボスの影響力が剥奪され、元ボスが仕事の体制を二重に敷き、動かしていた人間も、姿を消すか、別の人間の取って代わられることとなった。元ボスが仕切っていた体制の人間は、これから半分に減らされていくことになった。少なくない数である。元ボスの考えていた組織、本来意義のある組織だったが、彼の個人的な思惑から、育て上げることも、有効に働かせることも出来ず、他人に手渡したことになる。

[ 写真: 戻ってきた池の鯉。今のところ元気そうだ。池の水は表面は暖かいものの、下の方は水温は低く、鯉への影響は和らいだことになる。 ]

Sunday, July 22, 2007

[廈門・409天] 雑記の続き

・日本からメールが届いた。シンさんからだ。近頃私のblogを愛読しているが、ときに長い時間更新が途絶える。そのたびにいささか心配しておるという内容だった。心配していただきうれしいかぎりであり、友とはかくもよきものかと、遠く廈門から感謝させていただく。更新の中断は廈門の異常な暑さのせいであります。気力を半減させるほどの高温多湿なのであります。

・全てが暑さのせいであります。blog更新が滞ったのも、暑さのせいでした。なにしろ毎日が三十五度を超す。頭くらくらと来ておりました。追い打ちをかけるように湿度が上がっていく。もうトルコ風呂のようです。いやトルコ風呂には一度も入ったことはないんですが、映画で見ると蒸気としたたる汗とが印象的でした。毎日がそんな具合でした。部屋に戻るとぐったり、ばったりでありました。

・馴染みの珈琲店、火曜日は買一贈一の日。ピザが二倍楽しめる日。仕事を終え、若き妊婦ご夫妻と訪れてみます。珈琲は注文せず、ピザだけというケチケチ夕食。12インチを一枚注文し、贈一のピザ二枚、三人でも残りがでる。私はその分を持ち帰り、朝食にすることにしたのであります。

・早々と店を出、ウッドデッキが続く真夏の海岸にあるビアレストランに。毛唐の経営らしい。大昔のヒッピーの残党という感ありの男が仕切っています。見るからに汚らしいこの男、見覚えがある。いつもの珈琲店で、ビールで顔を赤らめ、若い中国女性を相手に、なにやら口説いている姿を思い出したのです。彼に儲けさせるのかと思うとなにやら腹立たしくなりました。これも暑さがさせたことであります。

・あー、そういえばカラオケ店に出かけたことは話さずじまいでありました。カラオケなので、普通のお店と思いきや、廈門随一のエンターテイメントな店であります。美女千人が常駐し、大ホールでショーあり、個室あり、店の格の高さは有名らしい。抱える美形は中国全土からやってきているといいます。その分十分に出費させられます。男三人に、女性が三人付き、テーブル係が二人、この女性へのチップと部屋代、酒代、しめて一人平均800元となったのです。日本円で約一万二千円。

・このところやけに出費が多い。先月先々月とケチケチ生活で、貯蓄を始めようと思ったものの、カラオケ店を始め、頻繁に訪れた珈琲店、人を連れだっての外食と、口座の残高は減り続けてしまいました。これもみな暑さのなせる業であります。

では反省して、明日からは自炊の生活、自分で珈琲を立て、ビールはスーパーで購入、空調も入れず、バカ暑くむしむしする気候に順応できるよう試してみることにします。

[ 写真: 海浜公園で見た月。おぼろ月である。 ]

Monday, July 9, 2007

[廈門・396天] 一服

三十五度を超えた。新しく移動した席は、広々とし、嬌声も届かない落ち着いた環境にある。しかし西日をもろに受ける。ブラインドがあるとはいえ、大きなガラスは、否応なしに熱気を吸収する。午後三時をすぎると、暑さで体がぐたっとなってしまう。いっぺんに朝の元気が吹き飛ぶ。電話の受け答えにも顕れるらしく、みな、どうしたの?と聞き返してくる。

とはいえ、家でのんびり休むわけに行かない今日この頃だ。今晩は、カラオケなのだ。一つの大きな現場の所長、といっても若い台湾人と、日本の女性がママをしているというお店に行くことになっている。だるく、眠く、でたくないが、出かけてきます。

今日のブログは写真なしの、簡単報告でご勘弁を・・・。

[ 写真: というわけで写真を探している時間がありません。なーんもないです。 ]

Sunday, July 8, 2007

[廈門・395天] 雑記-II

・そういえばこちらでカラスを見たことがない。南に位置すぎるのかな。夕刻、カラスの鳴き声が聞こえないのは少し寂しい。

・ツバメが姿を現すようになった。俊敏に飛び回る様は見ているだけで気持ちいい。東京ではどうなのだろう、かつてはツバメの餌がたくさんあった東京、今は熱気で死に絶えたか。

・空調をかけ、上半身裸で横になったら腹を下した。昨日事だ。そのまま今日日本語の先生がわりをしに出かけた。昼飯を食べ終えて外に出たらヤバイ、我慢できそうにない。近くの韓国食材点に入りトイレを借りた。ささやかなお礼に韓国インラメと焼き海苔を購入した。しかし下痢はヤバイ、堪えきれないのだ。

・会社をガラガラポンするネタを集めている男から電話が入った。「アナタノ属シテイル部門を潰スカ縮小スルツモリダ。アナタハドノ部門に入リタイカ。」と聞いてきた。夕食の後、彼と話をしてきた。長々と会社の行く末について談じてきた。厄介な会社なのだ。彼はそれに筋道をつけようとしている。可能だろうか、期待したいところだ。

・しかしありがたいことだ。普通なら、勝手に決められて部署を移動させられるものを、私の要望を聞いてから動くことにしてくれた。人社会、笑顔を絶やさず、会話を楽しみ、煙草を交換し合い、つながりを大切にしておくことだ。私は別に意識してそうしたわけではない。これ人徳。

・口うるさき日本の未亡人からメールが入った。私のメールを読んで、老人性鬱病だといってきた。自分でもそんな感じがする。口うるさき日本の未亡人からメールが入った。ボスが私の中国語がまだまだだという伝えに、一番の解決法は、若き男子か、若き女子を友とすることしか方法はないといってきた。自分でもそんな感じがする。適切なアドバイスをくれる優しき未亡人である。

・町を行き来する若き女性、珈琲店の若い子たち、みなヘソ出しのGパンを穿いている。骨格のいい彼女たち、様になっている。中にはオバサンも。オバサンも様になっている。体格の違いか、腰回りが実にしっかりしている。それにしてもみなGパン姿だ。何故だ。

[ 写真: なんのネタもないので、古い写真から引っ張り出してきた。梨風大師からいただいたブリキの猫。 ]

Saturday, July 7, 2007

[廈門・394天] 雑記

・日本では今日七夕か。テラスに出て空を仰ぐも星は何も見えない。町全体を贅沢に照らす照明が原因だ。

・河北の友は新しい仕事場に馴染めないでいるようだ。体調がよくないという。先日、何故近頃連絡をくれないのかとSMSが入った。あなたのblogが以前のように活き活きしていないから、故意に連絡を入れなかったのだと答えた。なにやら不満そうな文面が届いた。

・ボスは相変わらず、私の中国語に満足していないようだ。他の人にそう漏らしている。その分しっかりした仕事にありつけないと感じた。これは私にとって辛いことだ。また中国語の会話の授業を始めるか。先生は誰にする。一番大きな問題だ。昔の老師を呼び戻すか、新しく気分一新できる先生を捜すか・・・。

・辣腕総経理が何故去ったのか、まだ誰も知らない。本人が一度私に語ったことがあるものの、私の中文能力では理解できなかった。何か我々の知らないことが彼に身辺で起きていたのかもしれない。なぜなら、最も彼を理解していたボスですら分からないのだから。

・人間引き際が大事だ、日本人の感覚なのか。元ボスの周辺から次々と人が去っていく。見るに堪えられない。ボスは彼から仕事を徐々に切り離している。仕事に取り組まない元ボスを見ての対処だ。言い訳は出来ない。人間引き際が大切だ。

・影のボス直轄の部門がある。会社内部をガラガラポンするネタをつくっている部署だ。このトップがDVDを貸してくれた。今日半日かけて半分見終えた。日本の連ドラ、「ハケンの品格」、台湾版、「派遣員的品格」と、代わり映えしない翻訳だ。。篠原涼子のキャラは、彼女らしくて私は好きだ。

・明日は日本語の先生がわりをする日。会社の行き来と全く関係ない一日。日本語を必死に学ぼうとしているこちらの若者に接するのは楽しい。

[ 写真: 廈門の夜景、ビルの照明、コロンス島の明かり、対岸彰州の工業地帯。何故か豊かさを感じさせる光景。 ]

Friday, July 6, 2007

[廈門・393天] 手助け

珈琲店で働く小姑娘二人、仕事探しに必死になっていた。我々幹部がよく訪れるので、何かと会話に入ってきては、きっかけを作ろうとしている。一番人を必要としていたのは、酒店となりでばかでかい工事を担当している老頭子。しかし、彼は若く経験の少ない人間はいらないと常日頃語っていた。せいぜいホテルの幹部に声をかけてあげるぐらいだろう。麗江の若造はほしがっている。しかし彼は危険だ。仕事を超えた人事に関わってしまう可能性がある。

まあ幹部といっても、人事権があるわけでなく、最終的には董事長にお伺いが必要なのだ。事はそう簡単に動かせない。そこで私はホテルに移動したばかりの、交流を最も得意とする元秘書に声をかけてみた。彼女と一度、珈琲店に出向き、面通しをさせた。しばらくして、ホテルの経理から経歴書を持って面接に来てみなさい、と返事をもらったという。

では連絡を入れてみては。彼女、携帯がつながらない、プリペイドカード(ここ中国はプリペイドのみ)が空らしい。きっと金がないのだろう、追加のカードが購入できないでいるのかもしれない。仕方なく、私がもう一人の小姑娘に連絡を入れ、元秘書に電話するようすすめた。

帰宅してすぐ、もう一人の小姑娘から連絡が入る。二人して酒店に行ってきた、元秘書と話をしたところだ、という。二人時間があるので私の家に来て食事を作りますよー。エッ?今晩は元秘書と一緒に珈琲店に出向き、酒店の件を君たちと相談する予定だったのだよ、と告げ、では元秘書共々食事をしよう、とあいなった。

四人、一寸多めの食事を取り、私の家にやってきて、彼女たちの交流が始まった。元秘書と二人の小姑娘、方や珈琲店の内幕を、方や酒店のあれこれをしゃべりまくっている。元秘書、こういうときは活き活きと話をする。特に若き小姑娘に仕事を紹介してきたばかりだ。酒店が駄目なら、もう一つのホテルで面接してきなさい、酒店の彼とは話が付いている、彼は人事担当だ、と姐御気分になっている。気分が良さそうだった。

扶助 ( fu4zhu4 )の精神。ここ中国は人と人、組織をさしおいても人と人の関係が優先される。今の私、組織の中のポジションに関係なく、必要な人間を捜しては一緒に仕事をしている。これも一つの扶助。悪くいえば配下をつくっている。麗江の若造が、体制を語って私の仕事をさせようとする。そうなれば役に立たない組織の論理を振りかざすまでだ。

[ 写真: 記事とは全く関係ない写真。こちらのウェッブ上で探し出した章子怡(チャン・ツ・イ)の映画シーン。着物をモダナイズ、映画を見ていないので何も言えないが、コスチュームがいい。 ]

Thursday, July 5, 2007

[廈門・392天] 歩き疲れて・・・

一年前のこと、中国東北地方に出張した際、日本のカード会社から電話が入った。あなたのカードが悪用される可能性がある、という。僅かな金額だが、一度使われると、そのあと大金を支払わなければなる、カードを止めていいか。勿論同意、どこの誰がフィッシングしようとしたのか、カード会社ではだいたい見当がついているらしかった。

こちらでクレジットカードを使うことは全くない。まず使う場所がかなり限定されること、つまり不便なのだ。日本にいたとき、私はしばしばインターネットショッピングをしていた。日本で購入できない商品を手に入れるためだ。お店を限定しているせいもあるが、問題は一度も起きていない。

ここ中国ではまだ外国製品を入手しにくい。出来ても関税の関係でかなり高価だ。私はこのところ、ある商品がほしくてたまらない。日本に戻ってまで手に入れたいと思っている。安心してこの地でインターネットショップが使えるだろうか。あれこれ考えてみた。リスクはあるものの、銀行にある金を分散させることで、被害を最小で済ませられるだろうと、昨日銀行に出向き、綱上銀行(インターネットバンク)の手続きをしてきた。

銀行に金さえあれば、つまり現金さえあれば、ショップは銀行カードを一番信用する。銀行のこのサービスを受けることにした。若き妊婦に同伴してもらい、早めに会社をで、まず預金の一部を引き下ろし、この現金を別の銀行に新しい口座を開き、預金する。暗証番号保護のため、この口座は使わないようにする。そして元々の銀行口座を使って綱上銀行(インターネットバンク)を開いた。使えるようになるのは一週間以内だという。一つ楽しみが増えた。

はじめにこの手続きをしたいがどうしたらいいだろうか、若き妊婦に話したところ厄介なことをいう。パソコンを銀行に持ち込み、二度にわたりあれこれ・・・ということだったが、実に簡単、窓口一度で全て片が付いた。彼女もついでに綱上銀行の手続きをしていた。中国もサービスというジャンルに力を入れ始めている。

もう日が落ちかけていた。手伝ってくれたお礼にと、若き妊婦に肯徳基 ( ken3de2ji1 ケンタッキー・フライドチキン ) で鶏腿 ( ji1tui3 ) をご馳走した。彼女と別れ、ひとり海浜公園をゆっくりゆっくり、日没の海岸線を汗を流しながら帰路についた。海浜公園からみる内海の風景は、流した汗を忘れさせてくれた。歩き歩いて家に着くと、そのままベットに横たわり、気がつくと真夜中の三時、十分疲れていたようだ。

[ 写真: 今年初めに開かれたばかりの海浜公園、珈琲店あり、パブあり、スナックあり、スタンドバーありと、夜中はなかなかの賑わいだという。一度訪れてみたくなった。 ]

Wednesday, July 4, 2007

[廈門・391天] 希比


こちらに来た当初、私が元ボスからよく言われたのは、「ヒッピーみたいだね」。ヒッピー(希比 xi1bi3"hippie" )なぞ死語かもしれないが、元はといえば、物質文明や既成の秩序に反逆する人間をさしていた。そのうち、愛を語り平和を望み・・・なぞ俗に語られるようになる。

元ボスの意味するところは服装。Gパン、Tシャツ、コンバース。大企業にあってはならない様をさしている。まあ当時はホテルの工事現場が事務所だったので、現場の人間と一緒、格好をどうこうという話は重要ではなかった。

それでも、現場視察に来た影のボスの前に、そんな格好で私は現れた。しばらく一緒して話を聞いていたが、元ボス、私を呼んで「もう下がっていいよ」。工人と間違えるような様で現れるな、ということ。

それから一年、ある時元ボスが私に話しかけた。「君は平和を愛する人間なんだね」。当然である。好んで喧嘩を売るようなマネはしたくない。ボスは意識的に喧嘩を売る類の人間。自分でもいうように、かつてはヤクザまがいだったこともある。のし上がる、仕事を盗る、金を得る、平和主義ではなしえないと思っている。

会議で激論を交わし、自分の意見を頑固に押し通す。人のアイデアを自分のものにする。出来る出来ないはおいといて、自分ならもっといい案を提供できると語る。仕事を盗るにはこの方法しかないと考えている。私は違う。通すべき筋は通す。彼とは水と油なのだ。このところ、彼と会話を交わしたことがない。例えヤクザまがいでも、昔のように、まずやるべきことはやる、口にしたことは実行する、という姿勢が見えないからだ。

仲間うちに話す。元ボスは辞める辞めるといっていっこうに辞める気配がない。我々が去った後でも、きっと彼は辞める辞めるといい続けながら居続けるだろうと。

[ 写真: ヒッピー・ジェネレーション末期に登場したロック・グループ、イーグルスの若き頃と三十年後の彼ら。最近は YouTube で、しばしば「ホテル・カルフォルニア」のライブをみている。MTV全盛期の、好きなビデオクリップが、今ではウェッブでみることができる。孤独な夜を一人過ごすにはうってつけだ。 ]

Tuesday, July 3, 2007

[廈門・390天] 老頭子密かに策す

最近、とみにあたしと親密さを増している台湾老頭子、こちらに来てまもなく一年を迎える。はじめは何故か孤立していると感じたり、総経理だと威張る風情を見せていた。それも辣腕総経理に取って代わられ、ショボンとするわ、仕事が動かないわで、気持ちが追いつめられていた。彼に原因があるわけでなく、二人のボスの権力争いに巻き込まれたのだ。

今年、確か春節以降だったろうか、彼、居直った。ボスから能なしといわれ、台湾に戻れといわれ、彼は「ハイ」と答えたのだ。ボス、今すぐとはいわん、ということで、肝がすわった老頭子、ボスに左右されることなく、自分の考えで仕事を始めた。以降、おどおどとした素振りがなくなった。駄目なら駄目、できることしかできない。徐々に彼の仕事はボスに評価されるようになった。反面、反目の相手、元ボスは、そんな彼の、ボスに顔を向ける態度に腹を立て、始終罵るという。

能なしが何十人いても仕事にならん、十人で十分だ、老頭子はいい始めた。もともと元ボスが集めた人間、仕事もないのに現場事務所でぶらぶらしている。イヤ、ないわけではない、元ボスが仕事に集中しない、したくない仕事に手を出さない。結局何もすることがないのでぶらぶらしている。

人事権は権力者の手の内にある。かれはこれに挑戦し始めた。ケチなボスは彼に聞く。「何故こんなに大勢の人間がいるのだ、彼らは何をしているのだ」。老頭子はボスの一言を理由に、人員削減に取り組み始めた。

職員は毎年、労働契約を更新する。老頭子、どうやら役立たずの名前をボスに伝えたらしい。手始めに九人の職員、ボスの同意がなく、契約更新できず退職していった。他にも何人かは任意退職している。もし昔の、あたしの秘書がここにいたなら、確実に首になっていただろう。それを察知し、亭主に不倫の疑いをかけられた女性が拾い上げ、ホテルへと移動させたばかりだった。

老頭子、別に改革に取り組んだわけではない。自分の仕事をしやすくするために考え、それを実行しただけだ。結果、元ボスの配下にあった連中が去っていく。この出来事を元ボスはどう感じているのか。大企業にはそれなりの文化がある。この文化を変えるのは至難の業ではない。老頭子のように、居直ってこそ、少しづつだが、変わっていくのかもしれない。この様子を脇で見るあたしは、依然第三者であり続けている。あたしこそ明日がないのかもしれない。

[ 写真: 本当の夏空だ。澄んだ空、白い積乱雲、夏なのだ、廈門は。 ]

Monday, July 2, 2007

[廈門・389天] うるさいのだ!-II

夏のうだる暑さ、へばりつく湿気、それだけで疲れてしまう。一寸詰まった仕事を終えて帰宅、食事を取り終えるとバタッとベットに倒れ込んでしまう。と、突然大音響。重機関銃が爆裂したようなドッドッドッという響が寝室にまで届く。はっと飛び起き、何時かと、携帯を見やると夜中の十時。音源とおぼしき先を探しにテラスに出る。目の前で道路工事が始まったのだ。

どうもこちらでは、公共工事は二十四時間構わないらしい。昼夜明け方お構いなし。機材が揃えば、工人が集まれば仕事を続ける。常識らしい。だからみな何も言わない。お上の仕事に口出しはしない。だから夜中に突然地響きのような音が響き渡る。これ常識らしい。

では、民間工事はどうだ。前に住んでいた高級住宅地。高級マンションをにょきにょきと建設中だ。民間も国に習って追い込みになると二十四時間体制。高層から廃材を下に投げ捨てる。ドーンという音があたりを揺るがす。それも早朝。誰も文句は言わないのか。

これも以前住んでいたマンションの話し。上の階の大家、半年にわたって自宅を改装していた。週末をゆっくり休もうと思っていても、突然ドリルの音が。これがずーっと続いていた。ドリルのバイブレーションに酔しれたのではと思ってしまう。ときにはコンクリート釘を打ち込む音。さすがに夜の十時過ぎには終えていた。私は文句を言わなかった。言おうにもどう表現したらいいのかも分からなかった。

もう一人の老頭子と若き妊婦、彼らは同じマンションに住んでいる。このあたり、国際船の発着が可能な大埠頭を建設していた。それに伴い、周辺は大開発中。となりで超高層マンションを建設中。ある日ある晩、彼女が眠りについた途端、甲高い金属音が鳴り続いたという。いわゆるキーキーという、頭に触る音。亭主は出張中ということで、若きご婦人一人、現場に乗り込むわけに行かず、電話をかけたそうだ。現場の人間曰く、「文句を言ってきたのはあなた一人ですよ」。で、またまたカチンと来て持ち前の強気な発言で黙らせたらしい。

かつての日本、高度成長期の東京はどうだったろうか。今でこそ、工事時間は法で決められ、真夜中にうるさい音はなくなっているはずだ。みな同じ路を通り過ぎていくのだろうか。

[ 写真: 廈門は岩の島である。一寸掘るとばかでかい岩が首を出す。大きな工事現場では、ハッパをかけ、砕いて運び出すが、人通りの多い路の脇なぞでは、重機を使い、時間をかけ、小さく小さくして運び出す。 ]

Sunday, July 1, 2007

[廈門・388天] 戻ってきた友

河北のskypeの友が戻ってきた。戻ってきたといっても、彼女のblogが再開されたということ。失業後、新しい職場に移つった彼女の心境が述べられていた。まだ馴染めないのか辛そうで、疲れたと書かれていた。全て昔の辛かったことを忘れて新天地に向かったわけだから、そこでの成功を祈るより他ない。

どうも彼女、愛哭 ( ai4ku1 泣き虫 ) らしい。チャットのなかで、泣顔の絵文字を使うことが多い。新しい職場の総経理との面接の席で、ある話題になって泣いてしまったという。自分でもなぜだか分からないと書いていた。昔からなのかは知らない。

私の中文読解能力は高くない。それでも、彼女のblogを覗くのは楽しみだ。実に感性豊かに自分を表現している。外国人に読む気にさせるだけでもすごい。分からない単語や、文節にぶち当たると辞書を引かせる。中文を勉強させてくれる。わたしにとって、すばらしい中国語の教師である。

感性の豊かさは、一寸したことにも反応して見せてくれることでも分かる。先週、私が日本語教師のまねをしてきたことを話すと怒っていた。何故?と聞き返すと、私だけの日本語の先生でなくなったから、と答えた。うれしいかぎりである。

私が彼女と知り合ったのは、skypeを開いていたとき。あるチャットが入った。そこには、「廈門で孤軍奮闘中、ヒャヒャ!」という一文。わたしのプロフィールの自己紹介を冷やかしていた。面白いアクセスをしてくる人がいるな、というところから始まった。チャットはごく普通の会話から始まったが、内容がとても素直だった。付き合っていけそうに感じた。率直なのは、チャットに反応しないでいると、「返事がない・・・」、絵文字で涙顔を送ってきたり、冗談で「アホ!」と書き込むと、「傷ついた」と返答してくる。

彼女とは一度会って話をしてみたい。屁理屈好きな私も、きっと率直に対応できそうな気がする。

[ 写真: 昨年、嫉妬に駆られた亭主と戸惑った彼女の仲裁に入った後、道端で購入したジャスミン。冬場に向けて枯れるのではないかと心配していたが、今は鮮やかな緑に。二人の関係も新しい芽をふいてもらいたいものだ。 ]

Saturday, June 30, 2007

[廈門・387天] internet live

どんどん日にちが過ぎ去っていく。何故これほど早いのか。私には死期が早まっているとしか感じられない。すでに今日は六月最後の日。そしてF1フランス予選の日。中国はF1上海開催国である。F1サーカスはテレビで見れるだろうと期待していたが、いくらチャンネルを探し歩いても見つけることができないでいる。周りでF1を知っている人間もいない。探しようがない。

実はインターネット上にF1文字実況のウェッブがあるのだ。レース内容が秒刻みで書き込まれていく。勿論中文なので、西洋人の名前も中文、なかなか分かりにくい。それでもライブだ。順位がくるくると変わっていくのが手に取るように分かる。無料であるし、いち早く結果を知りたい、私のような人間には好まれていることだろう。

こちら中国に来て、インターネットがエンターテイメントに使われているのに実に驚かされる。例えば、アップルストアからお金を出してポップスをダウンロードしなくても、あるウェッブで、あるソフトを突っ込めば聞くだけでなく電脳に納めることができる。かなりの映画がダウンロードできる。それも外国ものは中文の字幕までついている。韓国の連続ドラマだって見ることができる。これらがどんな仕組みで可能なのかは問わないことにする。

会社で私の席は一番後ろ。他の人たちが電脳に向かっている様子が一目で分かる。彼ら、仕事の手が空くと、まずチャット。更に時間があると、小説を読むか、ヘッドフォンを耳に音楽か映画鑑賞、実に有益な一日を過ごしている。

若き妊婦は仕事をしたがっている。それでもチャットや小説を読んだりしている。ある時、彼女の元に行くと、涙を流している。どうした?!と聞くと、小説を読んで泣いたらしい。インターネットは感性までも豊かにしてくれる。不思議なメディアである。

[ 写真: F1フランス予選の最終シーン。久しぶりにフェラーリがポールポジションを取った場面。続いてハミルトン、ライコネンと続く。どれが誰の名前か、推測してみるのも暇つぶしにはいい。 ]

Friday, June 29, 2007

[廈門・386天] 道に迷う

道に迷う。いろいろな意味で使われている。恋の道、悪の道、人生の道、そして単純に道に迷う。今回のお話しは、単純に道に迷って酩酊した話しであります。

先週末、会食の誘いがあり、電話で店の場所を伝えてきた。湖濱南路と湖濱中路近くの深海魚を食わせる店だ、と。了解、では何時にそこに行きますです。しばらくしてまた電話。路を伝え間違いましたです、正しくは湖濱中路ではなく湖濱東路であるのです。はいはい分かりましたです、と答えた。

時間に遅れず、正確に店に着く、誉れ高き日本人の良き見本とばかりに出かけた。タクシーを拾い行き先を告げる。運ちゃんが聞き返した。東路?中路?。私ここで不安に駆られた。発音が正確でなく、「東」と「中」とを聞き間違えられている。中路であります、運ちゃん、ハイヨ。週末ながら路は空いており、約束の時間はるか前に交差点について下車した。

ん?いくら探しても目当ての店が見当たらない。時間がどんどん過ぎていく。店に着いたらしい友人から電話が入る。一寸まって、店が見当たらない。中路のどこそこだよね、と答えると、アホ東路だ!。はいよはいよ、まもなくつきますですよ。歩き始めたものの、なかなか東路までいきつかない。店では私以外の方々がすでに揃っているらしい。麗江の若造から電話が入る。どこにいるの?わたし、何々ホテルの前。何考えてんの、まだまだ先でありんすよ、歩いては夜が明けてしまうですよ。

廈門市は島にある。小さな島である。地図を見ても、端から端まで簡単にいけそうな気がする。だからといって歩いたこともなければ、車で端まで行ったこともない。先入観が道を間違えさせた。道に迷ったのだ。夜とはいえ、真夏の廈門。歩くほどに汗がしたたる。タクシーをつかまえるほどの距離ではないと、思えば思うほど歩いてしまう。更に汗がわき出る。

結局、店に着いたのは五十分遅れ。みなに詫びを入れる代わりに、駆けつけ三杯、それもビールに白酒を注いで一気飲みした。知らなかったが、ビールと白酒は相性がいい。口当たりがいい。旨い。実際旨かった。一気に酔いが回ってしまった。

あまりにもミックスビールが旨かった。いい気分で食後にみなで珈琲店に。気が大きくなったついでに、ボスを呼び出そうと提案するも、誰もが尻込みする。ではあたしが・・・と携帯を叩く。ボス、不審そうに聞き返す。「ブリキネコさんか?」、「はい、そうです。ボスの住まいの隣の珈琲店にいます。」、「え?誰とかね?」、「麗江の若造と、誰々と、なにそれと・・・」、一寸間があってから、「かけ直すわ」。

しばーらくして私にではなく、麗江の若造の携帯が鳴った。若造、ボスからと分かると、ホテルの医院の董事長に投げるように渡した。昼間怒鳴られ、ここでまた何を言われるか分からないと思ったのだ。受け取った董事長、女性である。ボスは彼女には優しい。彼女、楽しそうにボスに嘘八百を並べ上げて話している・・・

私はかつて電話魔と言われていたことがある。酔うと電話をしまくる。丹下健三さんのお弟子さんの家で酒を飲んでいた。悪い癖が出た。何人かに電話しまくった後、「丹下さんを呼び出そう!」。お弟子さん、「そそそれだけは辞めとけ!」

[ 写真: マンションからは、旧市街、老街が見渡せる。老街の中は細く曲がりくねった路。ここも道に迷う。 ]

Thursday, June 28, 2007

[廈門・385天] 嫉妬(吃醋)

嫉妬( 吃醋 chi1cu4 )とはかくも激しいものなのか。自制心がない、周りが見えない、一途に嫉妬する。ある種の狂気としか考えられない。端から見ているとただただ驚かされるばかりである。昨年元ボスとの関係を亭主に疑われた彼女に、またまたこの問題が起こってしまった。

昨夜、家について食事の準備をしていると、身辺整理がついたのか、身軽になったらしい元秘書からSMSが入った。「今晩の食事は何ですかぁ?」、「辛白菜麺」、「私も食べたいです」、あたし「早う来い!」。麺は彼女が作ることになった。足りない食材を、近くのスーパーに買いに行くかと玄関口に立ったとき、彼女の電話が鳴った。相手は大声で、泣きながら叫んでいるのが、私にまで聞こえてくる。

この電話の先には、元ボスとの関係を亭主に疑われた女性がいる。元秘書が必死に対応している。どこか外にいる様子。居場所を一生懸命聞き出そうとしている。元秘書、彼女を捜しに出かけることになった。駆け出す前、簡単に話をしてくれた。亭主が女房の携帯のログから、上司の経理の名を探り出した。亭主はこの経理を疑ってかかったらしい。その後、亭主は、毎日のように女房の仕事場、ホテルロビー脇に何時間も車を止めて中を覗いていたという。

今日、亭主が切れたらしい。女房に問いつめたようだ。身に覚えのない彼女、再三の問いつめに家を飛び出した。元秘書には、「・・・あたし死ぬからママによろしく伝えてくれ・・・」と言ったそうだ。元秘書も必死だ。走り出すように出かけていった。私も心配だ。昨年は私が女房に付きそって家にまで出かけたのだ。今回は元秘書がその役割を担うことになった。

夜遅く、元秘書に連絡を入れるもずーっと話し中。心配は募るばかりだ。しばらくしてSMSが入る。「何もないから安心して。今日は彼女の家に泊まる。詳細は明日」。とりあえず一安心したものの、なかなか寝付くことができなかった。

それにしても亭主の嫉妬心は激しい。それに周りが調整に乗り出しても、亭主は女房に話すのとは違う答えをする。調停のしようもないのだ。昨年と同じだ。女房も辛いだろうと、昨年、あたしが調整に付き添ったとき購入した居間のジャスミンを見やった。青い葉が出そろい、なんとか元気を取り戻していたジャスミン、この後どうなるのだろうか。

[ 写真: 主寝室からの眺め。超高層マンションからはみな内海が見渡せる。 ]

Wednesday, June 27, 2007

[廈門・384天] 日本語学校に遊ぶ

スカイプの友の一人、日本語が達者な廈門にお住まいの方からあるお誘いがあった。週末は何をされていますか?の問いに、暇していますと答えると、私の塾で日本語のコーナーがあるという。彼女の日本語の先生が催しているという。おしゃべりするだけでいいので参加してみませんかとのこと。わたし、時間がとれればゼヒと答えた。

是非と答えたのには一つの思惑があった。例の珈琲店の一人の若い子、彼女、高校卒業後、日本語の専門学校に通ったという。しかしいい加減に授業にでていたので、ちゃんと話せない。使える日本語を勉強したいと。じゃうちに来て料理作ってくれる?会話はみんな日本語で、といったものの、彼女、一度も顔を出したことがなかった。その彼女に連絡を入れてみた。彼女、大喜び。日曜の早朝、一緒に塾に行ってみることにした。

塾はある小区のマンションの一室。といっても広い。教室は三つ。ここの一室にスカイプの友、日本人の経営者、若い先生、それにあたし。生徒は十人を超えていた。日本人が経営する石材の貿易会社に勤める子は、さすが日本語は達者だった。石材の多くは、日本に送られるのだ。ボスは中国語が話せるのか?と聞いてみる。一人はほとんど駄目と、一人は実に達者だと。ボスは共に若く大阪の人間だという。

スカイプの友は韓国系中国人、いわゆる華僑である。十八まで韓国に住んでいた。韓国語は勿論、日本語も全く問題なく話し、字が書ける、それも上手にだ。日本語は、日本語を学ぶにはここしかないという大学でみっちり学んできた。卒業後も日本語を話す機会を探したようで、今では通訳をしているという。

ここで私は先生のかわりをしてきた。若い男女と、あの話しこの話と、教科書にない題目を探してみた。なかに一人十代の女の子、北朝鮮生まれ。彼女は私に質問する。「朝鮮や中国は日本の植民地だったのですか?」。この話は厄介だ。しかし誤魔化すわけにはいかない。私の知っている歴史の知識で答えるより他になかった。

ところで、私と同行した珈琲店の若い女性はというと、なにやら若き男生徒と話が盛り上がっている。それも二人とも日本語での会話である。彼女を連れ出したのは一応成功だったと言えそうだ。

日曜日を日本語学校で遊んできた。それなりに面白い体験であった。

(注:高校、大学に第二外国語があると、それは英語か日本語だそうだ。えっ日本語?と聞き返すと、東北地方には多いらしい。しらなんだ。)

[ 写真: 早朝のテラス。超高層ビルの合間、日の出と共に霧が立ちこめ、虹が浮かんでいるのを目にした。 ]

Tuesday, June 26, 2007

[廈門・383天] 昔なじみの誘いとは・・・

会社から帰りのバス、携帯が鳴った。元秘書、元中文老師、昔の仲間からだ。なんのことかと思いきや、夕食を共にしようという。あれま奇っ怪なことだ。まあ久しぶりだし、もともと今日は若き妊婦の妊婦服購入に付き合う予定が、一人午前中に出かけ、買い物をしてきてしまったことでもあり、夕飯の相手がいなくなったので、まあいいかと返事した。

家の近くの四川料理店で、大きな鍋を二人で囲んだ。彼女の誘いは会員権の購入のすすめだった。仕事をロクにせず、あっちに移り、こっちに戻りしていた彼女、最終的にホテルが予定しているクラブの管理部門に居座ることになった。そこでの最初の仕事が、このクラブの会員募集。会員になれば、あれが優待、これが割引と、パンフを片手に話をする。

一人勧誘すると、300元手にする。彼女持ち前の魅力を表に出せば、十人そこらはすぐに集められるだろう。簡単に三千元は懐にはいることになる。金に敏い彼女、誰それはどうだろう、彼それは入ってくれるよね、と聞いてくる。さて結果はどうかこちらも楽しみだ。

勧誘だから彼女のおごりと思いきや、結局食事代は私が払うことになった。では、とこちらも彼女の手助け話を持ちかけた。馴染みの珈琲店で働いている若い女性が職を探している、一寸ホテルの話をしてあげられないだろうかと。いいよというので、珈琲店に出かける。

珈琲店の彼女も人当たりが良い。人当たりの良い二人、会話はスムーズ、ホテルの待遇やら、宿舎やら、食事や手当やらと、とんとんと話は進み、最後は我が昔の秘書が上司に話をしてみるというところまで行った。この話もどう転ぶか私も楽しみだ。

[ 写真: 元秘書兼元中国語教師兼昔の仲間。こんな調子で仕事をされては困るのだ。 ]

Monday, June 25, 2007

[廈門・382天] うるさいのだ!

日本人が海外で仕事をする際にぶつかる問題、ルールが余りにも違いすぎること。考えられないような出来事にぶつかったりする。あたし、長年台湾の仕事で慣れていると思っていたら、まあ出てくるわ出てくるわ、うるさいことが。

まず、幹部のほとんどは台湾人、彼らはここで成果を上げ、どうだ、と言いたいのだろう。他人の按配なぞいっさいおかまいなし。ボスが締め付ければ締め付けるほど、目尻が跳ね上がり、結果主義に走る。ますます全体をみなくなるから、ますます締め付けられる。そんな体制だから、去った総経理、「ボスだけみていればいい」と公言していた。

今日、麗江の若造、私にこれこれのことを処理してほしいという。いいだろう、しかし私の要求は多く多岐にわたるぞ、と脅すも、あたしゃ分からないから言っているのだと、自分の力不足を人に押しつけようとする。いいだろう、やってやろうじゃないか、と今度は本土の人間にあれこれ話を持って行くと、話はいつまでたっても本題にいきつかない。いつまでたっても周りを回り続けている。

この話は誰それでなければ分からない、あの話はどこそこに持って行かなければ分からない、我々は業主であり、彼らに要求すればいいのだ、という。何故これほどスタッフが揃っていながら我々で対処できないのか、と聞く。ジェネラリストが存在しない悲しさ、みなスペシャリストであり、他のことには耳も貸さない。

一番厄介なのは、みな、口で仕事をすること。絵は描かない、数字は出さない、文章にサインはしない、つまり後々まで証拠が残ることはできるだけ避ける。いつまでたっても結論が出ないのは当たり前なのだ。

しかし彼らの口の達者なこと、私はうんざりする。ただただうるさいのだ。まったくもって彼らは五月蠅いのだ。

[ 写真: 夏なのだ。入道雲がわき出る季節だ。連日三十度を超える。かなりバテる。時に夕食を終えると、バタッとベッドに横になり、気がつくと明け方だったりする。 ]

Sunday, June 24, 2007

[廈門・381天] 粽子

ここ廈門に来てからというもの、季節感が希薄になった。四季が気にならない。四季がはっきりしない。冬という気配が薄い。かつて、千葉は勝間で、夏はうだり、冬は指先に息をかけていたことが懐かしい。なにしろ北回帰線に近い。廈門より南へ、広東省汕頭市の北部が北回帰線にあたる。亜熱帯なのだ。

それでも先週の火曜日、こちらは端午節。農暦の五月五日、こどもの日だ。若き妊婦が、「ママがつくった粽よ」と、手作り粽をくれた。粽子 ( zhong1 zi ) と呼ぶ。肉汁のしっかり染みこんだ、味の濃いつくりだった。別の女性、北の遠い遠い町の出の女性、彼女の手作り粽は白いもち米のまま、なかに甘い果実。広く大きい中国、味も様々。それぞれ美味しくいただいた。

雨期は去ったようだ。誰かが教えてくれた。端午節から夏だと。本社ビルの回廊から空を見上げれば入道雲。窓際のあたしの席は、ガラス越しに熱気が伝わってくる。おかげですぐ眠くなる。連日の三十度越え、寝苦しい。仕方なく空調を入れる。部屋のドアというドアを開け放し、居間の空調機一台、全開である。季節が移ったのだ。

そういえば、旧友のシンさん、横浜は山の手の瀟洒な画廊で個展を開いていたはずだ。今日は最終日、ご紹介するのがおくれてしまった。遠い日本から届いたDMには、「・・・今回、HANAと題して、たぶんこういう絵描きは一人もいないだろうという構成で展示する。貴君にも見てもらいたいが、今は無理そうなので、DM でも見て下さい。・・・」、と。

[ 写真: 粽は蒸して喰らう。鍋に水を溜め、浮かした皿に粽を載せ、十分ほど蒸す。いい匂いが厨房に漂う。包んだ竹の葉をほぐし、肉汁で色づいたもち米を箸で崩すと、なかには柔らかな豚肉が。 ]

Friday, June 22, 2007

[廈門・379天] 彼得・潘 綜合症

先ほど帰宅した。遅くまで、コーヒーショップで仲間たちとあれこれ激論を交わして戻ってきたところだ。おかげでblog更新が翌日になってしまった。

大昔の写真がいま手元にある。まな娘が日本の私のデスクを整理していてでてきた写真だ。「パパの手元にあった方がいい・・・」といって送ってきた。結婚前の連れ合いの写真も同封、「若いときのママはすごーく綺麗だった。パパが苦労させたんだろうな、あたしの知っているママは老けていたョ・・・」、と私を諭す一言も忘れていなかった。

小さなアルバムのなかに白黒の一枚。私だ。二十五歳前後だろう。この一枚、原宿・表参道、いまは無き古き同潤会アパートから友人が撮影したもの。細身のズボン、長めの髪の毛、むき出しのまま抱えた書籍と、当時最新だったソニーのボイスレコーダー。レコーダーには、確か、藤純子主演の「緋牡丹博徒」映画館実録テープのはず。

中国は廈門、この写真を見ている私と、写真の私とは四十年という歳月の差がある。すごい数字だ。ただし、当の本人に、そんな自覚はない。自覚がないのも困ったものである。精神的に成長がない。彼得・潘綜合症(ピーターパン・シンドローム)といわれても仕方がない。

若き妊婦はいう、「娘さんを呼んで日本料理店を開きなさいよ。絶対儲かるから」。儲かるといわれても、金が入ると思う前に、面倒くさいと考えてしまう。このところ、社内で株を買う連中が増えているという。確かに儲かる可能性は高い。オリンピック、万博と続くこの三年、株は上昇し続けるに違いない。同時に「元」が強くなるだろう。元を貯め込むのも悪くない。どれも話は面白いものの、手がける気持ちにはなれないでいる。

[ 写真: 自分でいうのも変だが、いい雰囲気がでている写真だ。社内の一人の女性、「冬のソナタ」の学生服姿のペ・ヨンジュに雰囲気が似ているという。屈折した気分が似ているかもしれない。しかし、ドラマでは、成人した彼は気持ち悪かったなー。 ]

Thursday, June 21, 2007

[廈門・378天] それにしても打たれ強いヤツだ

サンドバッグ状態、麗江の若造がそれだ。ボスから罵られないよう、細心の準備で資料をつくり、日報週報を怠らず、話は正直に。それにもかかわらず、ひたすらボスのサンドバッグになっている。何故なのか、彼にも我々にも解らない。

これはボスの秘書からの話。先日、若造が廈門にやってきた。秘書嬢が部屋にはいると、ボスが若造に向かって、「オマエの知能指数は小学生以下だ!」、「オマエはアホか!」等々サンドバッグ状態だったそうだ。知能指数は、小学生だろうが大人だろうが関係ないのである。ボスもボスだ。

若造、廈門にやってきてはボスにバカにされ、罵られ、サインももらえずじまい。週末のいっとき、カミさんと子供が待っている台湾へ帰りますとボスに報告するも、ただ一言、「何様のつもりだ!」。結局、口ごもりながらブツブツと悪態をついているのだろう、ボスの部屋を出ると、電話先の部下に当たり散らしている。それでも懲りずに廈門にやってくる。辞める辞めるといいながら、全く辞める気配もない。

彼はサンドバッグである。打たれ強いのだ。一歩外に出るとすぐに電話をかけまくる。携帯の住所録にため込んでいる女性に、片っ端から電話を入れて食事に誘うも・・・断られている。それでもまた誰彼かまわず電話する。彼の部下が麗江滞在二ヶ月で音を上げ、廈門に戻っていても、彼は体調を崩すことも、ため口が減ることも、食欲が無くなることも、なにもない。ますます元気になる。サンドバッグが爽快らしい。

こんな具合だからか、あるとき、私が彼とskypeでチャットをしていると、ボスの秘書が割り込んできた。「色魔!」に始まり、「シンセンの女とはどうした!」、「麗江の秘書は本当は彼女だろう!」なぞと、いいたいかぎりに書き込まれるのだ。

それだけ麗江の若造はみなから愛されている。

[ 写真: いまや老頭子の偶像となった「夢見るお月様」、河北のスカイプの友、彼女のプロフィルに貼り付けられていたイラスト。 ]

Tuesday, June 19, 2007

[廈門・376天] 「パリ・テキサス」のように

「パリ・テキサス」、だらしない男と女の話。まともに生きることのできない女と男の話。奇才映画監督ヴィム・ヴェンダースの、あたしにいわせれば最高作品。この映画の後半、駄目男が、逃げた女房の働いているテレホンクラブで、とても切ない出逢いをするシーンがある。あたし、テレホンクラブではないが、インターネットのチャットで、一寸切ない、そんな気分を体験した。

別にあたしも彼女も、だらしないわけではない。ごく普通にインターネット上で出逢い、語り、更に語り、冗談を交わし、若い娘さんを「姐さん」、彼女は私を「小弟」と呼ぶようになる。顔も解らず、容姿も解らず、どこの誰だかも定かでない。私は老人ですよと書き込むも、彼女からは半信半疑の返事が返ってくる。

そのうち、私も彼女が本当に女性なのか、若いのか、だんだんと解らなくなってくる。彼女も「小弟、あなた狡猾よ」、と私の問いかけにいらだちを見せたりする。言葉遣いも徐々に変わっていく。冗談を飛ばす私に、彼女、丁寧な受け答えからぶっきらぼうになっていく。感情を表に出すまいとしているかのようだ。

あるとき、松たか子の歌「夢のしずく」を知っているか、歌えるかと聞いてきた。知らない、毛沢東の詩なら唱える、とからかうと、マジになって、では彼のこの詩は知っているか、という。さらにあたしは「老紅衛兵だ」「老知青だ」(昔の知識青年)、だから歌えると続けると、「嘘つき!」と怒ったりする。

チャットを楽しむ普通の若い子が毛沢東について語るのか、興味を持ったあたし、インターネットで彼女の大学を訪れる。確かに学業のいくつかに名前はあった。しかし、だからといってこの学生が彼女だとは確証できない。

その彼女が失業した。明日実家に戻るという。あたしが「じゃ、この後どうやってあなたと連絡を取ったらいいのか」と聞き返す。彼女、携帯にと。すぐに、SMSで、と断りを入れてきた。

あたし、彼女の航跡を探した。インターネット上のいくつかのキーワードを当たるも、思い当たる点にいきつかない。再び元に戻ってあるキーワードを叩くと、あるblogが引っかかった。なかには日本語で書かれた日記、そして「日本鬼子」と題した一文が。廈門で働いている一人の日本人とのやり取りについてだ。

そっと彼女にSMSを入れる。「家に戻りましたか?日本鬼子はあなたが美しい人生を送ることを期待しています」と、彼女のblogから引用した文を送った。「・・・探し当てたのですね・・・」。彼女からの返事だった。

[ 写真: あー「パリ・テキサス」とは縁も所縁もなかった。名前を借りただけでした。写真は”夢見るお月様”との最後のチャット部分。 ]

Monday, June 18, 2007

[廈門・375天] その間会社では・・・

引っ越し騒ぎの間、会社では、元ボスが辞めるやめると周りの人間に話しまくっていた。私には一言も口にしていないのだが、誰も相手にしてくれず、元社員の麗江の若造に、愛人騒動を起こした相手に、運転手に語っているという。またかと、私と老頭子二人、今の給料を確保できる仕事なぞ他に見当たらないはずだ、と耳を貸さなかった。

結局その通り、元の鞘にまたまた戻っていった。男気を常日頃口にしている割には、何ともだらしない話である。あたしには男気なぞないが、それでも、やめると口にしたら必ずやめる。そのくらいの覚悟はある。そんなこんなで嫌気のさしたあたし、席は彼の部門から遠く離れた場所に一人陣取っている。上に人無し下に誰も無し、気軽に過ごしている。

こちらでは中国各地から人がやって来ている。やってきてはまた去っていく。失業という意識が希薄らしい。隣の席にやってきていた副総経理、仕事が決まって一度元の家に戻り、家族を連れてやってくると言っていたものの、二ヶ月たった今、いまだに姿を現さない。気にくわなければそれっきりだ。はっきりしている。

河北のスカイプの友、いい調子で話をしていたら、突然会社を明日辞めると一言。えーと私驚くも、彼女いたって平気で「失業」と答える。マーケッティングの若造の元についた小娘姑、上司の彼が気にくわないとさっさと辞めていった。決断の早いこと。うじうじと辞める辞めないなぞとごねない。気っぷの良さに目を丸くするあたしだが、明日のことを考えているのだろうかと少々心配をしてみたりする。

中国、未だ成長の過程にあるのだろう。いろいろなルールが定まっていない。その分可能性は無限だと感じているのだろう。

[ 写真: 部屋を決めるのに関係した人たち。左から私の仲介人、その右が会社の同僚の若き妊婦、その右に大家の仲介人、そして大家。まあみな派手に着飾っている。 ]

Sunday, June 17, 2007

[廈門・374天] 部屋探し最終記-II

気がつけば、新しい部屋に移って一週間、何かと月日の過ぎるのが早いこと。blog更新もママならず、忙しかったのもその一因、引っ越し疲れも一因、風邪で背中が洗濯板のようになり、二十年近く前も同じようだったか、これではまた外気功が必要か、心配の種が尽きなかった一週間でありました。

先週日曜日の引っ越し、雨の中、ビニール袋が山のよう。何かを買い溜めたわけでもなく、なのになぜか山のような荷物。若き妊婦が様子を身にやってきて、驚くやら呆れるやら。引っ越し屋の手配をしてくれていたので、やってくるのを待つ間、なぜ会社から箱を持ち帰ってこなかったのかと、ブツブツブツブツ口うるさく罵られる。最後には、ビニール袋を裂き、ひも状によじり始め、小分けの荷物を纏めかかったものの、彼女、あきらめてしまった。

引っ越し屋も、荷物の山を見て、話が違う、これでは値上げしてもらいまっせ、と念仏のように唱えている。傍らで若き妊婦、80元よ80元、それ以上あげては駄目よとささやいている。まあなんとか幌付き軽トラック一杯に詰め込み、私は助手席、新居へと向かった。軽トラで十分ほど、地下駐車場から荷物用エレベーターへ。一度で片が付かず、二度。引っ越し屋に、幾らほしいのか言ってみ、というと指一本立てた。わたし、OK,100元を手渡す。

部屋には、大家と大家の連れと、昔の秘書兼中国語の先生が。大家に三ヶ月分の家賃を手渡し、それでは食事でもいかがと、年の頃始終前後の大家に連れられて、一寸遅い昼食をご馳走になった。これでもまだ一仕事が残っている。元の部屋の大家に鍵を返し、管理費を精算しなければならない。昔の秘書に同行してもらう。金のことに無頓着だったため、管理費を支払った証書が見当たらない。おかげで、管理室の女にさんざん誤魔化されてしまう。二重に支払わされたわけだ。ばかばかしい。

疲れて、荷物の山の部屋に戻り、昔の秘書があれこれかたづける脇で、放心したような私。一応目処が立ったところで、昔の三人組、運転手を呼び出す。すぐ目の前の老街の一角に住んでいる。三人が揃ったのは何ヶ月ぶりのことだろう。半年ぶりかもしれない。あのころが懐かしい。子供連れできた運転手と四人、夕食をしに近くに出かけた。ものの、私は食も進まず、みなが楽しげに食している様をボッと眺めていた。

[ 写真: 小さくこじんまりとした居間。独りで住むには十分というものの、前の部屋が広く、家具も選ばれたものだったし、色具合も申し分なかった。それになんと言っても新しい住まいは雑踏のなかにある。慣れるのに時間がかかりそうだ。 ]

Wednesday, June 6, 2007

[廈門・36X日] 部屋探し最終記

えーと、今日は6月6日。確か私が廈門に足を踏み入れたのが昨年の6月8日。今年は閏年でないので、一年365日。明日がその365日のはず。どこで計算間違いをしたのか、今日が[廈門・365日]になってしまった。微調整させていただきます。今日は[廈門・36X日]と・・・。ドジですね。年を取りましたか・・・。

ここ三週間、週末は部屋探し。契約の切れる12日まであと一週間、これという部屋が見つからない。先週末の土曜日、今の部屋を仲介したオバサンが、今の部屋と同額だが、二回りは小さいが、落ち着いた、閑静なマンションがあると言ってきた。いつものごとく、若き妊婦に同行してもらう。交渉事は彼女でなければならない。

実にいい部屋である。ご婦人が住まわれていたので、味付けはどうしても女性趣味。それでも上質な設えの家具調度で飾られている。不思議なことに、高級な衣服がハンガーに掛けられたまま、チェストの上には自らの写真。化粧品も並べられている。バーカウンターがあり、後ろの壁には栓の開けられた洋酒の数々。先ほど出かけたママなのではないかと思ってしまった。

若き妊婦は目ざとい。私に耳打ちする。「この人、きっと小老婆(愛人)よ。みてみて・・・」と。目をあちこちこらしている。さすが女性だ。私は気に入った。仲介のオバサンにその旨告げ、いつ転居可能か、契約は、などの手続きを待つことにした。

翌日、仲介のオバサンから電話。大家曰く、ひと月待ってくれ、そのときもう一度話し合いたい、といっていると。小老婆、きっと情夫の記憶を残しておきたいのかもしれない。彼が去ったその日のママ、またいつか戻ってきたとき、お帰りなさいと出迎えたいのかもしれない、など勝手に妄想したりした。残念である。いい部屋なのだ。まあ大事な記憶をかき乱すわけにもいかず、さっぱりとあきらめ、別の物件で、場所は賑やかで、落ち着かないが見晴らしのいい部屋に決めることにした。

先ほど、大家のおばさんと会い、仮契約をし、仲介の、若く、愛くるしく、笑うと目が大きくなる女性、それに若き妊婦三人、甘い物やで仲介料を支払って戻ってきたところだ。いやはや実に疲れたここ数週間である。

[ 写真: 南のテラス、居間からの眺め。低層旧市街で工事が進められている。その後ろに、内海とコロンモス嶋。実に夜景が美しいという。 ]

Sunday, June 3, 2007

[廈門・363日] Skypeの友-II

スカイプでチャット、これが結構面白い。チャットといえば、若者文化の代表みたいにみられているが、語学学習にはうってつけだ。そもそもスカイプは会話を売りに始まった。仕事中に井戸端会議というわけにいかない。そうこうするうちに、いつしかチャットの機能が加えられ、脇でキーボードを打つ姿は、仕事の最中としか見えない。

中国で日本語を勉強している若き女性が、チャットの相手に私を捜し出してくる。暇なときにはできるだけ対応してあげることにしている。日本語の学習、中国語の勉強、双方の目的にかなう。今まで会話だけに集中していた中国語学習、キーボードを叩くこともだんだんと滑らかになってきた。ときに「本来ならこう書きますよ」と修正が加えられる。ときに傍らに辞書を置く。中国語学習の手段として、はじめから使っていたら、かなり進歩していたかもしれない。

河北の女性、私とのチャットにハマッたようだ。スカイプをオンにすると、真っ先に飛び込んでくる。昨日曜日、私は家で作業整理、彼女は日曜出勤。十分にチャットの時間がもてた。彼女は日本語で、私は中国語で、お互いに添削しながらのチャットだ。

そのうち、彼女、私の個人的なことに興味を示し始めた。スカイプのプロフィールには、「男性」、「日本語」、「中国・廈門」、「中国廈門で孤軍奮闘中」と紹介されている。彼女、少しづつ、少しづつ聞き出してくる。「住まいは東京?」、「家族は?」、「どうして奥さんがいないの?」。私は嘘をつかない。決して若くはないことを告げると、明らかに落胆した文章が帰ってきた。期待されても困るので、これで良しとしている。

今度は私の番だ。
「結婚していますか?」
「まだですよー。とっても若いんですから」
「ごめんなさい」、「では、男友達は?」
「いません」、「誰も私のこと好きではないんです」
「エー、そうかなー。あなたと会話しているととても楽しいですよ」
「どうしてみんな、あなたのこと振り向かないのかなー」
なんのことはない、援助交際に誘っているオヤジそのものだ。

・・・廈門での生活は決して退屈しないのだ。

[ 写真: こちらは貫禄十分のお方。6月14日からコンサートが三回にわたって開かれる。文化会館小ホールと紀尾井ホール。もし興味がおありでしたらお出かけください。期待にそむかないできのはず、だと思います。 ]

[廈門・362日] 周りが騒がしい-II

金曜日、部屋の持ち主に電話を入れる。「継続して住むつもり」だというと、いま外地(廈門を出ているという意味)なので後で連絡を入れるという。ものの五分もしないうちに携帯が鳴る。「あそこは値上がりの激しい場所だ。月五千元にしたい」。とうてい払える額ではない。「じゃ別に探しますです」と答え、「あっそっ」で話は終わった。あと十日あまりのうちに新しい部屋を決めなければならない。

で昨日は部屋探し。不動産屋と昼過ぎに部屋見に出かけることにしていた。若き身ごもっている人妻(しつっこいってば!)が同行してくれる。時間前、外は一天俄にかき曇り、ざっと来そう。彼女が降る前に出かけようと電話をかけてきた。

外に出ると、家の前の道路が封鎖されている。市政府建物に通ずるこの道、車の通行を阻止する黄色いテープが街路樹と街路樹に巻き付けられ、人の行き来も煩わしい。さすがに軍服姿は見つけられなかったが、武装警官を乗せた車が辻辻に止まっている。しかし市政府の方向を覗いて見るも、騒がしい様子はない。先日の市政府の声明が功を奏したのか・・・。雨がぽつぽつ着始め、彼女の家まで小走りに向かった。

封鎖された湖濱北路と直行する海岸道路は大渋滞。自宅まで車を運べない連中が、歩道を駐車場がわりにしている。交通整理の警官となにやら言い争っている姿も。雨脚が強まり、彼女の家で時間を潰し、ご亭主と三人して不動産屋へと向かう。運転手は市政府が環境調査を終了する半年後、工事を中止するという話は気休めに過ぎないと話している。周りが騒がしい。

不動産屋のお嬢さんはとても魅力的に見えた。人妻に言わせると、私より胸が小さく痩せていると。笑うと目が大きくなるというとても不思議な女性だった。目を開いて笑うのだ。それとは別に、部屋はどれも家賃が安いものの、私が望む落ち着いて緑の多い環境には今ひとつ。多い車、多い人の姿、多い店舗、でかい建物群、どれもが騒がしかった。短い余生を金を払ってでも安静に暮らすか、それともいざというときのために、百円でも多く金を貯めるべきなのか・・・。

相当に歩き回り二人は疲れた。私も心配だ。一通り見て回り、魅力的なお嬢さんと別れ、一休みしようよと提案すると、人妻実にうれしそうにある店に入った。日本でいえば汁粉屋みたいなところ。なんと彼女、私は(お腹の赤ちゃんと)二人分食べるのだ、といいながら大盛りで三品も注文していた。

[ 写真: 封鎖された道路。実に静かだ。一方新しい住まい探しの場所、車はかくも雑音をはき出しているのかと、今更ながら知らされることになった。 ]

Friday, June 1, 2007

[廈門・361日] 周りが騒がしい

ここに載せた写真、携帯におくられてきたメールのスナップショット。差出人は廈門市人民政府新聞発言人とあった。人民政府がなぜ私の携帯番号を知っていたかは問題でない。人心をコントロールするのに携帯が最も望ましいという現実である。差し迫った時間のなか、個人個人に市政府の対応を伝えなければならない、デモに参加している人間、これからデモに参加しようとしている人間に、いかに効率よく意志を伝えるか、実に心得た対応だ。

なぜこのようなメールが届いたか、内容について語ることはできない。なぜなら、私にとって身近な問題だからだ。廈門で日本語のできる人、スカイプの友とチャットを始めた途端、彼女は知らず知らずのうちに今回の問題を投げかけてきた。私は正直に答えるより他に手だてはなかった。

会社内部、多くの人間がチャットを仕事や友人たちとの井戸端会議に使っている。このネットに、今回の騒動の情報がどんどんと入ってきていた。デモの参加者が二万人を超えたとか、そのさまの写真とか、午後の会合に参加しないかとか・・・。携帯といいチャットといい、ネットが商業主義を超えてこれほど有効に使われているのを間近に見たことがなかった。一寸感動したりしたと同時に危ないとも感じた。

今日は、会社内部も市政府の建物に近い私の家の周りも、一寸騒がしかった。

[ 写真: 私は二つの携帯番号を持っている。通信会社が違う。中国最大手の会社の通信網からこのメールが届いていた。それもSMS(いわゆるショートメッセージ)の送信可能文字数のなか、三回に分けて送っている。写真が小さいので読み取れないかもしれない。それでよしとしてもらいたい。雰囲気だけ感じ取っていただきたい。いずれ詳細はご報告できると思います。ではでは・・・。 ]

[廈門・360日] 彼らは去るのか?

あと一週間足らず、私が廈門にきて一年の歳月を刻むことになる。そしてこの365日の間、嘘のような出来事が目白押しだった。ひと月遅れで加わった台湾人の仲間たち。開発会社の役に立とう、金を貯めよう、何か面白いかもしれない、などなど想いはそれぞれだったろう。我々のが寄り集まれば、できないことは何もない。そうみな考えていたに違いない。しかし結果はどうだったろう・・・。

予想に反し、目論見は見事に覆された。みないろいろ言い訳はあるだろう。権力争い、ひとを蹴落としてはい上がるもの、イジメにイジメが重なって居直った途端に力を発揮しだしたもの。なかでも我々を呼び集めた元ボスと辣腕総経理、最後には罵りあいの末、二人ともこの舞台から去ろうとしている。

昨夜、珍しくボスが宴席を設けた。目的は定かではない。新しくやってきたマーケティングの総監を我々に紹介するためだけではなさそうだった。会社から席を外していた辣腕総経理もこちらにやってきて参加した。

宴席を終え、辣腕総経理の車で帰路につく。いつものコーヒーショップに二人して入って二時間、彼は延々と会社から去る理由を話してくれた。話が本質を突いていたかは定かでない。どこか話さないことにしている部分を、話の合間に感じ取れた。いまだ突然に彼が総経理という職を投げ出したのか分からなかった。

もう一人、元ボスはこのところ、誰彼かまわず六月末に東北地方で仕事をすると言いまくっている。またか・・・と思うも、今回はどうも切羽詰まっている。私には一言も話がない。契約更新したばかりのわたしだ。一緒に同行するべきか、また一から始めるのか、厳冬の東北になじめるのか、思いは複雑である。

[ 写真: この二日間、スカイプ仲間に河北大学の研究生が加わり、暇を見つけてチャットを楽しんでいる。中国語、日本語、英語とマルチリンガルな会話である。 ]

Thursday, May 31, 2007

[廈門・359日] がらがらぽん

この二日間、二人の幹部と会食をした。台湾人である。一人は会社を離れたいと聞いたから。もう一人は転居を考えているわたしのため、部屋を見せてくれるという。一人は高級日本料理店に案内してくれた。もう一人とは湖南料理を口にした。日本料理店は廈門で名の通った店らしい。台湾人が開いたとのこと。しかし味付けにマヨネーズを多用しているのには閉口した。それに店の従業員が口にする日本語の聞き取りにくいこと。「じらしゃいまぜ」(いらっしゃいませ)、「おねぎゃいじまーず」(おねがいしまーす)。

食事を終え、彼の家に案内された。駅に近い、中庭が広く落ち着いた小区(いわゆる団地)、綺麗な奥さんとかわいらしいお嬢さん二人、奥さんは大の日本びいきらしく、さかんに日本のいいところの話をしてくれる。日本はとても清潔だと、廈門は中国で一番清潔だが、それでも・・・という。うれしいかぎりだ。お嬢さんが通う幼稚園には、日本人が一人、おかげで片言の日本語を話すことができる。小さなマンションに家族四人、ささやかでなぜか落ち着いた雰囲気を醸し出していた。

結局、彼は会社を離れることはないと語った。多くの、官職にある台湾人がみな口をそろえて会社の混乱した運営を指摘する。それほど問題の多い会社なのだ。

湖南料理を食したもう一人、彼はこの会社の混乱した状態を正すため、昨年秋、やってきた。影のボスが直々に仕切っている部門の長だ。企業集団の役員一人一人とインタビューをし、あらかじめ分析したデーターを元に、疑問を投げつけているという。私の属する部門とは、あさって話を聞くことにしているらしい。さてどんな答えを引き出してくるのか、密かに聞くことにしている。場合によっては、会社内部ががらがらぽんされるかもしれない。

当初の目的、部屋の見学。部屋の幅と高さ一杯の開口、内海が眺められる。広く整形な居間。大通りの四つ角という敷地の一角。付近には高級スーパーも、デパートも、いろいろな料理屋も揃っている。町を歩く人間のすがた形も悪くない。早速仲介のオネーさんに電話を入れてもらった。

[ 写真: 部屋に戻り、バルコニーから外を眺めてみる。やはりここは落ち着く。豊富な緑、水べり、適当な車の量、瀟洒な店、上質なお嬢さんたち、集中している銀行・・・。環境を買うのは高くつくものだ。 ]