Wednesday, December 27, 2006

[廈門・203日] break time

一服、一休み、中断時間。たまには記事無しの一日で・・・

[ 写真: ナシです。何しろ行動範囲が六十メートル角の中なのです。目新しい写真無しです。 ]

Tuesday, December 26, 2006

[廈門・202日] 池の鯉

今私が通っている会社の庭園、その一角に池あり。池に鯉あり。それもたくさん。水面に浮かぶ餌をすくってはまたすくい、その様いささか会社であがいている我々みたいに見えてくる。イヤになる。今会社が組織替えとかで、老人の首切りが始まっているからだ。まあ一般的にも七十才を超えれば退職してもおかしくない、組織替えを契機に若返りをしようとしているよう。重役三人が旧正月前までに消えていくという話なのだ。

では私はというと、リタイアードの専門家として受け入れているとのこと。リタイアードといわれると建築家にはリタイアードはない、と自負しているので、はっきりと言われると小憎らしくなる。ボスは我々新入りの幹部との会食の席でこう話していた。「私は君と違ってストレスの度合いが違う。君の仕事はいつまでも続けられるが、私の仕事には限度がある。退職までそんなに時間がない」。つまり新入りの幹部の中から次世代をになう人材を捜し始めていると感じた。

その仲間から選ばれた一人、新しい総経理の彼が今日我が家に一宿を求めてきた。やってきたのが十時近く、それまで仕事場で組織改革の案を練っていたとのこと。現在の案を語りながら私のしたいことは何なのか、そのための提案を提出して欲しいと話した。リタイアードと語っておきながら、一方では意欲的な改革に荷担してくれと。はっきり言って疲れる話だ。それでもこの気持ちのいい廈門に慣れ親しんだ今、ここでの仕事も受け入れなければいけないのかもしれない。

[ 写真: 新しい総経理の話が長引き、投稿が翌日になってしまった。写真は池の鯉。この写真を撮っている傍らで、本社から現場へと追いやられるらしい総経理が煙草をくゆらせていた。 ]

Monday, December 25, 2006

[廈門・201日] 海外の常識・私の非常識

ふるーくからの友人のピアニストがメールで私の生活を評してきました。「・・・それにしてもなんかジジむさい生活してますネ~!・・・」。ああ私の今の生活状態はそうなのか、イヤだなー、ジジむさい生活なぞ。振り返ってみれば、ここ廈門に足を踏み込んでからのあの三ヶ月間、そのときの出来事と比べてみれば、今の私は、いや新任したみんなが縮こまっていますね。あのときは明日があるような気がしていた。いまあるのは翌日があるという感覚。これみな自己保身がもたらした技ではないのかと。

私の非常識。当たり前のことですが、ビザを求められる国に滞在すると、ビザの期限というものが記されます。ビザの種類にはいろいろあって、観光だ商用だ留学だ、かつ何日間滞在可能だ、などなど。これを無視すると不法滞在、ときには強制退去させられたりする。しかし面白いもので、日本で不法滞在五年を切り抜けると滞在許可が下りるらしい。人伝えに聞いた話であります。

ともかく私は非常識な日数を不法滞在してしまいました。不注意からであります。対応にでた公安の方は呆れかえっておりました。出国の際の係員も、私のパスポートを見て、上司に確認し、上司は「金は払ったか?」、「いくら払った?」と聞いてきましたです。

しかし会社も会社なのであります。当然のように外国人の管理を怠らない必要があるはずです。パスポートのコピーを渡しただけでは何も動いてくれないのです。台湾人はここ中国では同胞であり、いろいろな面で優遇されておるのです。滞在手続きも簡単らしいのです。前回の不法滞在に懲りた私、再入国と同時に事務方にしつっこく対応をお願いした。結果、無事一年間出入り自由と相成ったのであります。

[ 写真: ふっふっふっ、一年間出入り自由なビザであります。 ]

Sunday, December 24, 2006

[廈門・200日] 鍋と教会

 鍋といっても救世軍の鍋ではありません。火鍋 [ huo3gou1 鍋料理 ] のことです。今日はクリスマスイブで日曜日、どうやら町は若者たちで賑わっているらしいのです。鍋料理でイブを過ごそうという提案が秘書からあり、運転手共々街中に繰り出した光景のことです。早めに店に入り、それでも六分ほど席が埋まっていたものが、帰り際には、店の入り口には列ができておりました。

この店、運転手が選んだのですが、バスを降りて店構えを見た拍子に、見覚えがある。そう、つい先日、中国語の授業の日、会社から戻る車が無く、さんざん待たされた末に授業がキャンセルされたときのこと、弁解がわりにここで食事をおごったばかりでした。着いた席も先日の席に近い。ボーイ、さすがに我が秘書を覚えていました。「このあいだ来てあすこに座ったでしょう・・・」。運転手、秘書嬢に「あれ?来たことあるの?」。一寸バツが悪かったですね。

旨い鍋を口にした後、私と秘書嬢は教会に向かいました。彼女の面倒を見ているお姉さんが熱烈な信者で、我々が引っ張り出されたわけです。中国で教会、どこにも信者はいるもので、それもよく組織され、ボランティアの方々があれこれ面倒を見ている。舞台では聖歌隊が、これもまたよく訓練された歌声を披露しておりました。

人混みのなかをタクシーで戻り、湖畔のコーヒーショップあたりはいかがなものかと、一人散歩に出てみました。夜中の十時過ぎ、どの店も満席、毛唐の姿がいつもより多い。クリスマスは毛唐が持ち込んだものです。彼らが賑わいを演出しておりました。

しかしクリスマスイブに鍋と教会、なんだか泥臭い夜でしたね。この泥臭さをこちらでは「土」 [ tu3 田舎臭い ] というそうです。

[ 写真: 鍋と教会、不思議な取り合わせの聖夜でした。 ]

Saturday, December 23, 2006

[廈門・199日] 湯圓

昨日は冬至、こちら中国でこの日に何かする習慣があるかどうかは知らなかったのであります。出勤してみると、一人の秘書嬢がやってきました。「アイヤ!忘れた!湯圓もってくるの!」と一言。聞いてみますと、このあたりでは冬至に湯圓 [ tang1yuan2 ] を食する習慣がまだ残っているのだそうです。日本と同じであります。湯圓は中にあんこの入った餅米でつくる丸いお団子を、煮汁に浮かしたものであります。煮汁にはお砂糖をたっぷり入れるのです。

あんこは花生 [ hua1sheng1 落花生 ] か芝麻 [ zhi1ma5 胡麻 ] が一般的らしい。あやかりたいものでしたが残念なことでした。

退勤、家に戻り、一人夜食をどうしようか、面倒くさいものだ、トーストにベーコンで誤魔化すか、なぞ考えておりましたところ、扉の外から声がします。「ジジ!ジジ!」。玄関には早く扉を開けろとうるさくわめく元秘書が、買い物袋を抱えて立っておりました。我が元秘書は実に気がつく、面倒見がいい、献身的なのであります。

元秘書、「今日実家のカーサンに電話したら、冬至には湯圓を食しなさいと言われたの。だからジジに食べさせようと買ってきたよ」。早速手料理と、食後に湯圓を手際よくつくってくれました。湯圓の中身は芝麻であります。冬至に湯圓、薄ら寒い廈門の冬を食しました。

厨房であれを洗えこれを用意しろと指図されるままにしていると、窓の外から奇っ怪な声が伝わってきました。暗い窓先を覗いてみると、すぐ上の階のバルコニーから、孫を抱えたバーさんが、下で湯圓を調理している様を孫に見せていたのであります。バーさんは湯圓を孫に与えたのでありましょうか。

[ 写真: 湯圓を口にしようとしている元秘書。湯が多すぎ、甘さが足りなかったのは残念。 ]

Friday, December 22, 2006

[廈門・198日] こちらでゼロを持ち歩くと・・・

ゼロ・ハリーバートン。この懐かしいアタッシュケースを今回廈門に持ち込んだ。A3サイズの図面を折らずに納められる。以前日本でよく持ち歩いたものだ。しかし何しろ重いし、満員電車の中で身動きがとりにくい。TUMIのバックも悪くはないが、頑強なものを選んだ。

このゼロ、存在自体が話題になってしまった。みな危険だ危険だと叫ぶ。現金がいっぱい詰まっていると思われる、やめろやめろ、とうるさい。このところ、黒一色のビジネスバッグが一般的。しかし私のゼロ・ハリーバートンはシルバー。よく目立つ。米国映画でよく使われているのを見ているから、現金搬送用だと思っている。これでアタッシュケースと私の左手首を手錠で繋げばそのものになってしまう。よく目立つことは悪いことでもあるのだ。

昨日は帰宅が遅れた。原因は移動用の車が極端に少ないこと。現在、専用の車がなく、いつも数人で利用している。一人が遅くなれば三人遅くなる。これに懲りて、今日はあらかじめ一般事務員の利用するマイクロバスに乗るつもりでいた。ところが運よく一人の秘書嬢の車に同乗できた。自家用車である。広大な敷地から大通りに出るところにゲートがあり、一般車は一時停車させられ、保安員が一台一台トランクを調べる。我々の車も規定通り一時停車し、トランクを覗かれ、さあ行くか、とそのとき、後部座席でゼロ・ハリーバートンを抱えていた私を見付けた保安員、ゼロを指さしなにやらわめいている。助手席の女性、「いつも抱えてるじゃないー」。で何とか抜け出した。車の中で二人の女性にみな私のせいだ、そんなアタッシュもう持ってくるなと、家に着くまで口汚く文句を言われ続けたのである。

[ 写真: ハリーバートンですか、イラクで社員が拉致されていたような気がしますね。何しろ米国随一の民間軍需産業会社です。それだけで狙撃される可能性大なのです。 ]

Thursday, December 21, 2006

[廈門・197日] 龍虎相対する

昨日の続き。日本から戻ってきた元ボス、私に話してくれたこと、「実に気分の悪い旅であった。出かける前に実にイヤな思いをさせられ、私の一番嫌いな人間と共に行動しなければならなかった」、「私も年をとった。四角かった私の心も今では丸く丸くなってしまった」。全く元気がない。それでも視察したホテルの魅力を語り、現在企画中のホテルへ応用した際の金勘定を黒板に書き記し、一泊99元でもとがいくら儲かるかを熱く語ってくれたのである。

そんな最中にやってきたのがボス。ホテル一泊99元について話し始めると、それは一寸違うぜとこちらも熱く反論を始めた。竜虎相まみえたのである。しかしどう見ても代案を持たないボスの説得力は弱い。それでも元ボスは静かに上司の話を聞いている。ボスを見つめる目は悲しそうだった。私は用を見付けてその場を去っていった。

この企業グループ、その中でオンブにダッコが不動産開発部門。石油化学グループが生み出す大きな利益を使い切るための部門なだけに、最も給与が低い。そのことを秘書も運転手もみんなして私に話をしにくる。といわれても、私だってオンブにダッコ状態、何も利益を上げていない。いつクビになっても給与を減らされてもおかしくないのだ。契約とは言い難い一枚の紙には、署名無し、私の名前無し、つまりどう転んでも保証しますよととは言っていないのだ。

あー今日も殺伐とした話になってしまった。それに一人頑張っている総経理のおかげで、帰宅は遅れるは、中国語の授業は中止になるわでいいこと無しであった。

[ 写真: 竜虎二人の写真。結構いいタイミングで撮影できた。シャッター音の後、ボスはその場を少し後ずさりした。撮影されるのを嫌ったのかもしれない。 ]

Wednesday, December 20, 2006

[廈門・196日] そういえば元ボスは・・・

以前からこのblogに目を通していただいている方には、このところ一人の人間が登場してこないではないかと思われているに違いない。私を廈門に引きずり込んだ張本人、台湾の元ボス。八月初めから高血圧に悩まされ、それでも現場を仕切って開店にまで持っていった男。一体どうしているのか。私もよくわからない。仕事の打ち合わせ、黙礼、簡単な会話を交わすものの、何を考えているのやらさっぱり解らない。今後どんな風に仕事に関わっていくのか聞いてみても、「慢慢来、慢慢来」 [ man4man4lai2 ・ゆっくりゆっくり ] としか言わない。

前にも話したように、上司のボスというのが建築の「外行」 [ wai4hang2 ・素人 ] 。その上物事が決められない、朝令暮改、間違いはたとえ自分が指示したものだったとしても部下の責任にしてしまう。部下はたまったものではない。今日も食事時、麗江の現場担当者をひたすら罵り続けている。ボスの去った後、「今日の食事は味がわからないでしょー」と声をかけた。彼は私に「ポストを替わって、ポストを替わって」と懇願してくる始末である。

私はボスにほとんど罵られたことはない。理由は簡単だ。「外行」には私のやっていることが理解できないからだ。文句のつけようがない。会議の席でも、私が打ち合わせを始めると、「じゃ旨くやってくれ」の一言で退席してしまう。ありがたくもあり寂しくもあり・・・。

元ボスの話に戻ると、彼、このボスとの確執がますます激しさを増しており、彼から実質的な権限を何とか取り上げようと策略を立てていた。そのため、最後の切り札を斬るまで私たちには何も話をしてくれないのである。先週末に開かれた董事会、元ボスは開始直前に席を立って姿を消したという。おそらく会の議事録を見て、密かに裏ボスと練って合意した会社の改革案が見事消えさっていたからに違いない、と私は見ている。元ボスは負けたのだ。

[ 写真: そんな殺伐とした内容はおいといて、昨日の廈門の空である。実に気分爽快でありました。今日は中国語教師が別の生徒を教えに行ったため、私の時間が空いた。おかげで投稿はいつもより早めなのです。 ]

Tuesday, December 19, 2006

[廈門・195日] 一陽来復

まもなく冬至、一陽来復 [まもなく春がやってくる、運が向いてくる]の日、今が一番苦しいときか。考えてみればそうかもしれない。12月のblogを読み返してみると、なんと登場人物の狭いこと。ほとんどが我が秘書と我が中国語教師との話。なおかつこの二人同一人物とくれば、ほとんど話にならない。あとは秘書嬢を追っかける男の話。それだけ行動範囲が狭かったのだ。

仕事場がばかでかい紡績工場の一角に移ってからというもの、買い物も食い物も他の人に会うのも車が必要。食事だけは食堂でとることができるからいいものの、周りを見渡しても顔ぶれは変わらず、煙草が切れても買い足しすることもできない。自ずと話題が限定されてしまう。

家に戻り、中国語教師が訪れるのを待ち、外部情報を交換し、現場ではああだったとか、ホテルの経営陣の給与が半減するのでほとんどが辞めていってしまうとか、代わりの総経理が新年にやってくるとか、ようやく新鮮な話題に出逢うことになる。

12月は私だけでなく、我々の仲間も苦悩の日々だったらしい。新しい人事と共に、同じ仲間の一人が本社の総経理に大抜擢された。この男、拍馬屁 [ pai1ma3pi4 ] 、いわゆるおべっか男、ごますり男、それも実に壮絶。口先の鋭いことこの上ない。欠点を指摘しそこを徹底してついてくる。同僚は彼の役に立たない攻撃に辟易とし、私にしきりに離職したいと漏らす。おかげで我々はバラバラに。私もそんな中に巻き込まれたくなく、可愛い中国語教師とささやかに日々を過ごすこととなってしまった。そんなわけで一陽来復を願うのである。

[ 写真: 早朝六時半の風景。まだ日は昇ってこない。後ひと月半待てば旧暦の正月がやってくる。春到来である。 ]

Monday, December 18, 2006

[廈門・194日] だらしのない猫

一瞬日本に戻った際の我が愛猫の寝姿。相変わらずだらしのない格好で惰眠している。こいつは人見知りをする。半年ぶりに顔を合わせると、そそくさと縁の下に逃げ込んでしまった。いっときを過ぎると、他の猫たちが私の周りで和んでいるのを見てか、彼もここに加わってきた。いつまでたっても人見知りが抜けない。翌日にはこれこの通り、縁側のライティングビューローで私がいようが我関せずとこの姿。あきれるやら微笑ましいやら。

廈門のマンション、脇に馬祖廟と池がある。ここに野良猫が住み着いていて、真夜中なにやら泣き叫んでおり、ときにうるさくてしょうがない。それに愛想がない。近づいても一定の距離を保ち、決して人様に柔肌を触らせようとしない。一度誰か住民が餌を与えているところに出くわした。このときだけは彼か彼女か、なでなでしても餌場から離れようとしない。久しぶりに感じた柔肌である。しかし所詮都会猫、人様との付き合いの要領を心得ていて、千葉の片田舎の猫のように野性味にほど遠い。やはり私は田舎の猫が好きだ。

廈門はきっと中国の他の地と違って裕福な層が厚いのだろう、日曜日の昼下がり、湖畔で犬と散歩をしたり、戯れている姿をよく目にする。それに湖畔のコーヒーショップ脇の路上には、レンジローバーやらボルボやらベーエンベーの7シリーズやら、ここで購入すると目の飛び出るほど高価な車が横付けされていたりする。廈門は特別行政地区なのである。田舎の縁側でだらしなく眠ける猫には相応しくないのだ。一度このあたりの田舎に出かけてだらしのない猫に出逢いたいものである。

[ 写真: 千葉県勝間の片田舎、我が愛する雄猫のだらしない姿である。 ]

Sunday, December 17, 2006

[廈門・193日] パラソルに吊られたサンタ

このところ曇天と小雨が続いておりました。運転手に聞いてみます。「廈門の雨期は冬なのかい?」、「イヤ違いまっせ、例年いい天気なんですがねー」。異常気象なのでありましょうか。寒々として、冬の台北を思い出しました。

今日日曜日、久しぶりに快晴、爽やか、家の外に出たくなったのであります。ただ風がいささか冷たい。小雨と曇天の肌寒さ、風邪をひいておりました。昼時、ぶり返さないよう厚着をし、湖畔を歩いてみます。一人イタメシ屋のデッキに。日射しが体を温めてくれます。いつものお嬢さん、「珈琲ですか?」、「エスプレッソ・ダブル」。これも久しぶりに喉を苦みが通る。

デッキ上には鉢植えのポインセチアが至る所に置かれていました。まもなくクリスマス、こちらでは聖誕日と呼んでおります。呼んでおっても周りの人たちはあまり気を入れている様子がありません。ここは中国、西洋のしきたりには馴染まない。ポインセチアが賑わう場所は外国人の宿泊先のホテル、西洋料理店、そして商機を狙うテレビの宣伝で見るくらいなのであります。ポインセチアの赤、目に鮮やか、こちらの国旗の色に近いと思うのですが、これがイタメシ屋のデッキによく合っておりました。

次の日曜日が聖誕日、さて一人で過ごす青き聖誕日になるのでありましょうか。それともかわいらしい我が秘書が一緒に過ごしてくれるのでしょうか。そうなると贈り物を考えなければなりません。これもいささか煩わしいことであります。

[ 写真: デッキを覆うパラソルに、ジングルベルとサンタが吊られておりました。 ]

Saturday, December 16, 2006

[廈門・192日] これでは多すぎる!

もと運転手が話します。「料理は手間暇かけて食うのは一瞬」。今日は久しぶりに彼が加わった会食。これもひと月以上無沙汰の出来事。料理をするのが好きな我が秘書、週に一度買い出しに出かけると、山のような食材を買い込む。彼女曰く、「これで一週間はだいじょうぶ」。先週も確か同じ口を聞いた気がする。それはそれでいいものの、残った総菜を見て、翌日も翌々日も同じ総菜を口にするのかと、当然のように食傷気味になる。

日々料理を用意してくれるのはありがたいことで、では賄い料を払おうかと口にするといらない素振り。理由は、「一にジジのため、二に料理が好きだから」。毎回「美味しい?」と聞くので「美味しい!」と答える。しかし二人とも塩がききすぎていることがわかっている。「だんだんと直していこうではないか」、「うん」。これも毎回の会話。不思議なテーブルトークなのだ。

もと運転手に聞く。「彼女の料理進歩したかな?」、「ほんの一寸、スープ以外はしょっぱすぎる」。お世辞抜き。ここ中国ではお世辞は必要ない。自分の意見をはっきり言うこと。まだまだ私はそこまでできていない。わたしは「中国学」を身の回りの人たちから学んでいる。理解はできても実行までいけないでいる。まだまだ修行が足りない。

[ 写真: 一瞬のうちにこれだけの料理をつくってしまうのには驚かされる。中華料理店もそうで、次から次へと切れ目なく料理が運ばれてこなければ、客足は遠ざかる。ここでの仕事も同様、切れ目をつくらないことだ。 ]

Friday, December 15, 2006

[廈門・191日] バースデーケーキ

私にも生まれた日がありまして、それが今日なのでありました。11月には元ボスの誕生日をホテルのイタメシ屋で豪勢に開いたのです。しかし私には誰も声がかからず、なんと寂しい誕生日かと思いきや、私のパスポートを管理している我が秘書、しっかり私の誕生日を記憶していてくれました。手配よく、ここでケーキといえばアンデルセン、予約を取っておりました。

さらに秘書嬢、日本料理店に招待してくれました。予約無しだったため、はじめのお店は満席、タクシーで下町のビルの中の店に移動、満腹で我がマンションの下にあるアンデルセンへ。家に戻り、二人だけでしたが、胃袋を無理矢理開けて美味しいケーキを口にいたしました。秘書嬢に感謝なのであります。

彼女が帰宅した後、我が愛娘はどう対応してくれただろうかとメーラーを開いてみます。残念、誰からも祝いの一言もなかったのです。ただ一人、学生時代の知人、ピアニストから不確かだが確か今日が誕生日ではないかというメールが届いておりました。彼女にも感謝しなければいけません。早速お礼の返信を入れたところです。

一人長逗留していると、一寸した心遣いを受けるとやたら感激してしまうものでして、二つも感動を受けた一日がまたうれしくなってしまうのです。やはり私には物より思い出、死ぬときには体いっぱいにこれらを詰め込み旅立ちたいものだ、なぞ考えてしまったのです。

[ 写真: アンデルセンというパン屋さん、日本のお店と関係あるのか解りません。漢字で表記したいのですが、変換できません。字がないのです。中国語で書き込むと文字化けしてしまいますので遠慮しました。 ]

Thursday, December 14, 2006

[廈門・190日] 喫煙

本社ビルの回廊の一角、喫煙点とサインが張られたコーナー、昨日自行車が置かれていた場所があります。室内で喫煙ができませんので、ほぼ一時間おきに、アトリウムの下、衆目の集まるなかを歩いて外に出て行くことになります。ほぼ一時間おき、私以外にこれほど頻繁に喫煙所に足を向けるものはいないに違いありません。日本人は煙草が好きだと聞いていたけれど本当にそうだそうだと、密かに語られていることでしょう。

実は中国人、煙草の好きな人は多いのです。会議でも挨拶のときでも食事でも、すぐに煙草が差し出されます。断るのはなかなか難しい。郷にいれば郷にと言っていると肺ガンになってしまいそうであります。こちらの人はどこでもお構いなしに煙草を吸いますから、ホテルのレストランの禁煙席は実に少ない、かつ恵まれない一角だったりします。普通の煙草が5元から15元、出費は少なくない。中には目玉の飛び出るほど高価な煙草もあります。いわゆる国賓への贈り物、幹部の会食で配られるもの、などなど公費でなければなかなか手にできない代物です。

問題はやたらと辛い、私が日本で愛用していたタール1mgのキャスターなぞ、こちらの人に差し出すと、これなんぞやと驚かれる。全く味がしない。私は長年味わってきていたので、微妙な味がわかりますが、こちらでは15mgなぞごく普通なのです。あれやこれや探しまくった結果、現在愛用しているのが韓国製煙草、ESSE Lights、タール4.5mg、細く長い。ここでは俗称「女人煙草」といわれているそうです。クラブなぞ、きれいどころのお嬢さんたちは好んでこの煙草を吸っていると聞いています。

[ 写真: 韓国製煙草「 ESSE Lights 」。細い分、一日に吸う分量はそんなに多くなっていない、はず。 ]

Wednesday, December 13, 2006

[廈門・189日] 自行車

本社ビルの回廊の一角、喫煙点とサインが張られたコーナー、一台の自行車 ( zi4xing2che1 ・自転車) が目につきました。どっしりとした、格調あるつくり、各パーツに固定されたメーカーの金属プレート、何か自信作であることを感じさせております。愛娘が幼少の頃、近所のおもちゃ屋で購入した中国製三輪車を思い出しました。金属プレートを後付けにする、英国製ミニもそうでした、英国製ロードランナーもそうでした、英国製モールトンもそうでした。一昔ってみんな金属プレート取り付けていたんでしょうね。
この作業用自転車では、サドルに、荷台に金属プレートありです。どれもがしっかりしている。色もいい、図案もいい。こういうものに出逢うとなぜかうれしくなるものです。バチバチと撮影をいたした次第であります。
ここ廈門では250cc以下のバイクは運転できません。排気ガスによる空気汚染への配慮です。車をもてない多くの人たちは、公共バスを利用するか、電動バイクか自行車を移動手段にしております。車の騒音はそれなりに伝わってきますが、バイクの甲高い音と排気ガスの臭気は届かない。いっとき、ここ廈門にモールトンを持ち込もうかと考えたこともありました。が、何しろ運転ルールが全くかけ離れている。怖ろしくて車道はおろか横断歩道も渡れそうにない、仕方なくあきらめたことがありました。

[ 写真: 何も語りません、じっくりとご覧になってください。 ]

Tuesday, December 12, 2006

[廈門・188日] 秘密の花園

本社ビルの中央はアトリウム、ガラス張りの天井から日が差し込みます。一階で仕事をしている秘書嬢の中には、日焼けを怖れ、衝立の上にさらに自製の衝立を立てて日を遮っております。大きな大きなアトリウム下の床、大きな花壇が設えているのです。一週間ごとに鉢植えの花は入れ替えられ、色とりどり、目を和ませております。一週間ごとというのは、四六時中手入れされている感覚なのです。オバサンやオジサンは、鉢の入れ替えに二日をかけ、さらに一日見栄えのよいよう、向きを変えたり場所を入れ替えたり、それはそれは難儀に思えます。

この鉢植え、全部で三百はくだらないでしょう。それを一週間ごとに変えていくのですから、相当の出費に見えます。さてその花なのですが、今日、秘書嬢二人が、私を誘い、仕事の合間に抜け出し、秘密の花園へと案内してくれました。高い樹木に囲まれた、手入れの行き届いた庭先の小道を木々の間をくぐり抜けると、隣接した広大な土地一面に鉢植えが並べられておりました。一人のおじさん、一つ一つ鉢植えを見て回っております。手間のかかるものです、生き物は。まあ生き物といってもご婦人に手を出すわけではないものですから、和やかに眺めておりました。

それにしても庭園に手間をかけることにお金を惜しまない、手間暇かかる鉢植えを選ぶ。日本の本社ビルでは、できるだけ手間暇かからない植栽を選びますが、ここは違います。人件費が安い国柄とはいえ、そう簡単にまねできるものではありません。よき心構えであります。

[ 写真: 本社ビルの一階、中央はかくのごとく鉢植えで埋められている。一階にいると目につきにくいものの、二階三階ではかくのごとく眺められる。今回は白い花でこの会社のシンボルマーク、白鷺を表しておりました。右の写真は鉢植えを送り込む秘密の花園、色とりどり、冬でもここはかくのごとくであります。 ]

Monday, December 11, 2006

[廈門・187日] 半年も住めば・・・

気がついてみれば今の住まいに移り住んで明日でちょうど半年、住めば都の快適生活が続いておるのです。廈門市の中心とは一寸はずれた、湖畔に近い高層マンション群と戸建ての住宅群があったりする。外国人も多ければその外国人を目当ての乞食も多い。洒落たイタメシ屋があったり珈琲ショップが連なっていたり、その一方で一本大通りから中に入れば市場があって、小さな食い物屋とか自転車や靴の修理店とか身の回りを面倒みてくれている便利な店も多い。適当に賑やかで適当に閑静で、中国の他の地ではなかなか得られそうにない場所なのであります。

我が家は、以前紹介したように30坪に二寝室二浴室、床は真っ白な大理石、壁は部屋ごとに色が異なり、かといってうるさい感じのしない清楚な仕上がりなのです。先日、日本の知人がどんな部屋に住んでいるのかと聞いてきたので、何も物が置いていない部屋の写真を送ったところ、何もないという部屋もきれいな物ですね?と疑問符付きの返事が届いた。何もないのは半年という時間もあるだろうし、しがらみのない生活が影響しているのかもしれません。しがらみがなければ物に執着もしない、できたら死に際には何もなくなっているのが一番いいのではないかなぞと思っている次第であります。

場所柄、私と時期を同じくしてやってきた連中の中では一番部屋代が高い。それでも月4000元というのは日本円で約六万円。連中の中には、私の家に居候し続けたり、ボスの家にそれこそずーっと居続けている者もおります。彼らは実にケチなのです。ケチというより、戻るときには大金を懐に戻りたい、そう思っているようです。生活を楽しみながら仕事をする、建築家にはなくてはならない要素であります。そんな考えは彼らには全くないのです。これではいい物できないはずです。

[ 写真: この地図はわが家の界わいを中心に撮影したものであります。 ]

Sunday, December 10, 2006

[廈門・186日] ある男の話

同僚の男の話であります。彼は台湾から呼ばれてやってきました。早口で、こちらの人に言わせるといささか奇妙なしゃべり方をするそうです。一寸女性の話し方に似ているといいます。しゃべり方が女性的だから動作もそうかというとこれが違いまして、なかなか男性的なのです。男性的というのは女性に対して積極的だということであります。もちろん妻帯者であります。

ある日彼は一人廈門見物に出かけてきました。見物の途中、彼にいわせると「小さなお嬢さん」と出逢ったといいます。廈門に疎い彼、小さなお嬢さんに案内を頼むと、快く承諾してくれたとのことです。しばらくしてのこと、出張先から長旅を終えて戻ってきたある夜、私は彼と道端の屋台でビールを飲んでおりました。彼に電話が入ります。話が終わったあとに電話の相手が「小さなお嬢さん」だと話してくれました。どうも出張先にて彼の秘書をしてみないかという話をしていたみたいなのであります。

一寸厄介なのは彼が我が秘書にも積極的だということです。我が秘書は彼に対し上司に対する心得で対応しているのですが、私に断りなく彼女に仕事は頼む、こちらの予定にお構いなく引き出そうとする。私の秘書なのにここでも秘書にならないかと声をかけております。彼の廈門滞在中、何度か彼女との会食も試みたらしい。しかし誘いを受けたくない彼女、おかげで我が家は毎日のように彼女の避難先と相成ってしまったのであります。彼から電話がかかってくると、「ボスの家にいまーす!」。そんな対応にも彼、まだあきらめた様子が見受けられない。イヤ、こうでなくてはここで仕事は進められないのかもしれないのであります。見習うべきか見習わないべきか。人間、厄介な生き物であります。

[ 写真: 彼が宿泊先に選んだホテルは我が家の真向かい、ここの23階だという。おいおいおい、我が家は丸見えだぜ・・・コワッ! ]

Saturday, December 9, 2006

[廈門・185日] カレーパーティー

今日は客を招いてカレーパーティーと相成りました。あまりひとを部屋に呼び込むことがなかったのですが、気を取り直して元気を装う我が老師のたっての希望もあってのことです。そもそもはKTVに出向きカラオケパーティーの予定、しかし本来今日は老師の友人の結婚式だったり、結婚式に参加すると大枚を払わなければならないとか、そのため携帯の電源を切っておこうとか、友人と泊まりがけで泉州に出かけた方がいいかとか、あれこれ策を練っていたらしい。結局私の一言ですべてキャンセル、では我が家になにがしかの友人を呼んで食事会ということになった次第であります。

老師、自分にできないことはないと、常日頃から虚勢を張っている。私が役員食堂での会話、一人の役員が私に廈門の日本料理はどうかと聞いてきた返事が、ある日本料理店のカレーは一番だと答えた。その話を老師にしたところ、私だってできるできると平気で口にする。意欲は買おう、あとは口にするまで、でパーティー開催が決まった。

当日早朝、彼女は日本で長い間生活したことのある知人宅に寄ってきている。彼女からカレーのレシピを聞き出してきたらしい。カレーのルーも頂戴してきた。昼前、我々はカルフールに出向き、大袋いっぱいに食材を購入、夕刻を待たずに調理を始めた。

私はカレーってどうつくったっけと記憶は定かではない、老師は耳学問、結局二人の合作となった。招待した客は私の同僚と彼女の以前の同僚、私の同僚以外はお代わりをするほどの成功作、なかなかの味でした。廈門で日本味のカレーライス、先日帰国のさいに愛娘のカレーに満足して戻ってきて、今度は老師のカレーに満足、よき一日でありました。

[ 写真: 鍋一杯につくったカレー、お代わりがあったにもかかわらずまだ二三日分は残っている。ああこれでしばらくカレー漬けですか。これもまた問題だなー。 ]

Friday, December 8, 2006

[廈門・184日] 仕事場

私が所属している会社の本社ビル、開発地区に展開している関連施設の一角、高さ十メートルを超える木々に囲まれた中にある。手入れされた庭園、各所に設けられた監視カメラ、よく教育された保安員たち。この建物、四十メートル角地上三階地下一階建て、その三階に裏ボスが住まわれておいでになるのだ。ビルの中央は二十四メートル角の吹き抜けが設けられ、三階から事務空間すべてが見渡せる。管理するのもしやすい。吹き抜け上部はガラス屋根、仕事をする側も、明るくゆったりした空間の中にいるので気分がいい。

重役には個室があてがわれ、ここだけは煙草が吸える。それ以外すべて禁煙。私は一階の窓際、大部屋の一角である。大部屋といってもすべて解放されている。デスクはちょうど目高のパーティションで仕切られ、オフィスに入ってきたとき、人はここには誰も見当たらないのではと感じる。よけいなものが嫌いな裏ボスは建物の気分をよく心得ているのだ。

上斑 ( shang4ban1 出勤 )下斑 ( xia4ban 退勤 )、トイレにお茶、食堂への行き来はこの吹き抜けが廊下がわり、当然雑談も少なくなる。中国社会にあって、この静寂はなかなか得難いのだ。

食事は地下室に設えられており、ここは課長以上の人間が、役員はその一角の周りとガラスで区切られた一室で食する。私には個室が与えられていない。煙草と縁の切れないでいる私は、外の喫煙場所まで出ていく。食後は庭先のベンチでのんびりと一人紫煙を楽しんでいる。芝生に四季の花々、悪くない環境なのである。

[ 写真: 左写真・庭園の一角から本社ビルを眺める。自然要素と人工物、裏ボスの基本姿勢である。 右写真・私のデスクからの眺め。正面右側のガラス戸がメインエントランス。二階もオープン、吹き抜け際が通路。三階はここからは見えない。天井の材料が貧弱なのが残念である。 ]

Thursday, December 7, 2006

[廈門・183日] 戻ってきた笑顔

身近にいる人たちにもいろいろな人生が待ち受けているもので、私の愛する中国語教師も、私が日本に戻っている間にいろいろな出来事を体験していたようなのです。あれこれ問いつめることもなく、それとなく聞くこともなかったものの、目と言葉尻から、あーいろいろなことがあったんだろうなと、心を痛めておりました。

私も気を取り直し、しっかりと中国語をやり直そうと老師に伝えたところ、彼女も力強い言葉で励ましてくれましたし、これまでの学習の甲斐あってか、教科書の新しいページも何とかクリアできてしまい、心なしかほくそ笑んでいたりしている次第です。彼女あっての成果であり、彼女のキツイおしかりも昔を思い出させます。なにより自然な笑顔がでてきたのがうれしい限りなのです。初めて二人が中国語という一つの媒体で知り合ってから半年、今まで以上に充実した授業になりつつあります。

私たち二人、他の人からは、いささか異常な関係ではないかと思われてる節を随所で見ておりますが、当人、至極自然で、私には母親を亡くしたときの娘が父親を必死に面倒みようとしていた姿を思い起こさせるのです。これも年の功がなせる技かと、この関係の続くことを願っている今日この頃なのです。

先日誰とだったか忘れましたが、中国の南と北の違いについて話し合ったことがありました。(おっと思い出しました、日本からこちらにやってきていた先輩の台湾系日本人の華僑、仕事ついでに訪れてくれたとき、ホテルの珈琲テラスでのことでした。)南は何しろ人なつっこいし話し好き、北はつっけんどんとして取っつきにくい。ここアモイは南系、珈琲テラスのお嬢さんは私たち二人に愛想よく長話をしてくれておりました。我が中国語の老師も当地の人間、実に話し好きですし、面倒見がいい。一人長逗留しているものにとってはかけがえのない相手なのであります。感謝、感謝。

[ 写真: この半年で大人の顔つきになってきた中国語教師。空白の11月当時と違い、目に輝きが戻り、顔色も艶もよくなって戻ってきた。 ]

Wednesday, December 6, 2006

[廈門・182日] 気を取り直して中国語練習

随便 (sui3bian4 勝手気ままに) に使いまくっていた私の中国語、こちらに来て使い物にならないのがわかった。今まで友人知人店の女の子、私の中国語を理解してくれていたのだろうかと、思わずうなだれてしまう。ボスにもいわれ、始めた中国語学習、老師に恵まれ、とんとん拍子に進歩したかと思いきや、慣れとは怖ろしいもので、老師も私も甘えがで、しばしば中断することが十月あたりから始まった。とんと教科書は半分からあとに進まない。

私の部屋に居候が長逗留し、脇に人がいては勉学に集中もできず、老師は老師で個人的問題で身が入いってこない。結局十一月は中文学習の空白のひと月となってしまった。元ボスはしきりに私の中文が進歩していないことに口を挟み、会社内部の組織替えで、私が話ができないままではポストも与えられずと嘆くことしきり。元々会話で仕事をするなぞ思ってもいなかったのが、口先だけで仕事を進める中国人社会の特質にうんざりし、さらに中文をしたためなければならず、役員食堂で情報をやり取りするという習慣にもなじめないでいる。

とはいえ一念発起、中国人になりすませるだけの会話力をつけようと、この年で語学の勉強を再開したわけであり、ここで折れては東アジアの首領の私の名が泣く。十一月末に戻って、老師共々気を取り直し中国語学習に再び取り組むことにした。仕事の合間を見付けては予習に取り組み、漢字練習をしてみたりしている。はたして、七月末の中文学習、あの気の入れようが戻ってくるのか、正念場となった。

[ 写真: 私のデスクは一番後ろ。なおかつ衝立があり、簡単にはデスクトップは覗けない。それをいいことに、ときに中国語の予習なぞしている。しかし元々一つのことに熱中すると他が見えなくなる質、顔を上げると脇で元ボスがニコニコと私を見つめていたりする。 ]

Tuesday, December 5, 2006

[廈門・181日] 足もとの民俗劇

昨夜、中国語の授業を終え、相変わらず騒がしい老師が去った部屋、それでも外から鉦や太鼓の音。ん?この音は捨て置けないではないかと、どこからやってきているのかと、テラスに出て音の出先を探してみる。マンション敷地内の廟が煌々と照らされ、仮説の演台が設えられ、音はそこからやってきているではないか。飛び降りるようにエレベーターに乗り込み、寒空のなか、境内へと向かった。

歌仔劇、台湾では節目節目に、路上や一寸した広場で目にしてきた民俗劇。ここアモイは福建省、台湾へ渡来してきた人たちの故郷である。同じ神様を祭り、同じ民俗劇を演じ、同じ言葉を話す土地柄である。気分はまさに台湾。懐かしいのである。厚化粧の、華やかな衣装を纏って演じる男女、冬の寒空のもととはいえ、あの台湾のむせるような暑さのもとで覗いた伝承劇を思い出さずにはいられないのである。

境内はがらんとして人けは少ない。子供たちが舞台のかぶりつきに張り付き、本殿の階段を椅子代わりに住民たちが座り込んで聞き入っている。かれらは携帯のデジカメで様子を撮影する奇っ怪な老人を不思議そうに眺めていた。いくら北回帰線に近い場所とはいえ、夜は冷え込む。わたしは一通りの時間を過ごすと、そそくさと部屋へと戻っていった次第だ。

[ 写真: ここでは歌仔劇とはいわず、高甲劇と呼ぶそうだ。同じ系統の言葉とはいえ、違いも多いし大きいらしい。演台と観客の姿である。できたら夜でも暑さが染みこむ夏に見てみたかった。 ]

Monday, December 4, 2006

[廈門・180日] 移転通知

気がつけば、いや気がついていたものの手がつかなかったblogの更新、ひと月の間を開けてようやっとその気が起きたのであります。何が原因で更新というものが止まってしまうのか、いささか不明瞭でありまして、だからといって理由を探すまでのこともない、まあ続いていけば面白いかと、移転通知の発送を期に一寸。そう今日でアモイ180日目となったのであります。

・移転通知_捜索願のでる前にと思い関係者におくりました。特別深い意味があるわけでもありません。しばらくアモイ滞在を続けるということで、いつまた日本に戻るやもしれませんです。その一方でこのあたり、つまり福建省の小都市や片田舎で阿姨(お手伝いさん)を傍らに余生をなんて気分にもなっております。

・オーバーステー_海外で長期滞在をしようとすると、多くの国は滞在許可書をとるよう要求されます。私が取得したのはFビザ(商用)、六ヶ月、数次、ただし一次30日、というものであります。とんとそんなことは忘れて、一度シンガポールに出かけて一次分をクリアしたものの、その後は何も知らない幸せな日本人として過ごしてしまった。で、結局大幅なオーバーステーとなりまして、こちらの公安に五度も足を運ぶという体たらくとあいなりました。

・一時帰国_11月の終わりに人知れず一時帰国をしておりましたのです。いささか面倒なことを一週間にわたり片付け、そそくさと廈門に戻ってきております。そのあたりの下りはオイオイお知らせしたいと考えております。冬着に替えつつある今日この頃です。ではでは・・・

[ 写真: 移転を知らせた一枚のはがき。 ]

Sunday, November 5, 2006

[廈門・151日] スピードダイアルのイラスト

日本より持ち込んだ携帯三台。そのうちの一台は日本のボーダフォンのSIMカードでしか使えない。国際電話同様だから電話を受けるにしてもかけるにしても高くつく。一台はデジカメとビデオ専用。ビデオは中国語教師が教科書を読んでくれるのを録画、授業の予習用に使っている。中国語の扱えるのは一台だけ。といっても英語版の携帯に中国語を突っ込んでいるので、中文を打つのに向いていない。SMSはこちらでも便利。しばしばやり取りされる。それになんといっても安い。手軽に素早くやり取りするにはやはり純正の中国語版が欲しくなる。というわけで新たに携帯を購入した。

ノキアのN73という最新機器。使い勝手がやたらいい。これ一台ですべて賄えるといっていい。ボタン押しやすくてよし、画面大きくてよし、写真撮ってよし、名刺スキャンして解読してアドレス登録できて、MP3聴けてFM聴けて・・・重宝この上ない。今では慣れて中国語でばんばん使っている。デジカメも3MBと、解像度も上がっている。強いて不満を言えば幅が小さいためわたしの手ではホールドしにくいことぐらいか。

便利しているのがアドレスに写真を添付できること。これが意外といい。文字で誰からかかってきているかは解るのだが、写真やイラストだと一目瞭然、即座に電話を受ける際に相手の名前をよんで返答する。「タマさん、こんにちは!」。かけてきた相手は気分がいいだろう。

(また blogger.com にアクセスできない。原因不明。中米間で何か政治的な問題でも起きているのか?そのため " a Cup of AsianTea " には投稿できないでいる。 )

[ 写真: イラストを使ってアドレスに添付。その人の特徴を見つけ出し選び出している。左から下へ、我が秘書タマさん、元ボスの孤独な後ろ姿、今のいい加減で女好きな運転手、そしてわたしが最も信用している中国人、前の運転手。ルパン三世に似ているので選んだ。 ]

Tuesday, October 24, 2006

[廈門・139日] 勝間ネコ便り

暢気に過ごせる廈門、世の出来事に疎くなっているとはいえ、忘れてはならない日もあるのです。今日はそのなかの一日。十八年前、愛娘たちの母親が去った日であります。

昨日下の娘よりメールが届き、愛娘二人が墓参りに出向くと伝えてきました。わたしはこちらにいて早々と去ったかれらの母親のために何ができるのか。多くの海外在住者たちがこの件をどう対応しているのか知るよしもありません。そこで勝手にわたしなりに供養することにしたいと思う次第です。

さて、日本には他の家族もいるわけで、久しく無沙汰しているのが三匹のネコたち。千葉の片田舎の畑と雑木林に囲まれた古農家で彼らが如何様に過ごしているのか心配でなりません。娘に一文連絡を入れてみます。今朝がた届いたメールには、丸々と肥えた二人の姿がありました。面倒を見ていたわたしがいなくなり、さぞかし不便をしているのではないか、一人心配していたものの、その気配すらなく、いささか拍子抜けした次第であります。これを取り越し苦労というのでしょう。

[ 写真: 土間に積まれた段ボール、二人はこの場所が好きなのです。彼らに邪険にされているもう一人が映っておりません。やはり仲間はずれにされているのではないかと、心を痛めております。 ]

Sunday, October 22, 2006

[廈門・138日] 刃こぼれ

まあすごいものでして、鶏と家鴨を捌いたあとの包丁と俎板、ご覧の通りの姿に相成ってしまいました。骨ごとバキバキしてしまう肉切り包丁とちがい、ベジタリアンが愛用する刃先ではか細い鶏さんの骨でもとうてい太刀打ちできませんでした。刃先と俎板をこれほどまでに痛めつけた少女を褒めるべきか、できの悪い包丁を責めるべきか、中国四千年のながーいながーい食いものの歴史を語るべきか。

料理は芸でありまして、それでは料理の先生は芸人かというと違う。日本でもこちら中国でも料理人は芸術家なのであります。ちなみに料理の先生を師匠と呼ぶのは当然なのです。我が社が保有する開店したばかりのホテルの料理の師匠は香港の人間、ふとっちょであります。至極愛想がいい。その割には味付けの方向が曖昧でありまして、どの料理も同じ。次から次へと出てくる料理に起承転結がない。これでは飽きられてしまう。はたしてどうなるのか、人ごとながら心配してしまいます。

それに反し我が秘書兼中国語教師兼義理の娘の料理ははっきりした味付けであります。簡単に言えば田舎料理の田舎味、野味があって豪快そのもの。少女がつくったものとは思えません。しかしここ中国では誰もが料理の先生なのであります。世の中いろいろです。だから面白い。廈門の旅もひとしお面白いのであります。

[ 写真: 鶏と家鴨を捌いた少女の腕は太いのです。でなければ刃先がこれほど痛めつけられるはずはありません。 ]

[廈門・137日] 毛沢東の子供たち

廈門滞在が長い割には事情通になっていない。道を走っていても、ここがどこかも理解できていない。食い物屋も家の近くにあるどちらかというと高級料理店しか知らないし、ましてや酒を飲んでカラオケしたりお嬢さんと談話するなぞということも経験していない。まあ別の言い方をすれば、それで十分生活を満喫している、なぞとうそぶいてみることもできる。

先日、マーケッティング部門の新人のいささかデブな若者と一緒に町に出た。このデブ、ボスにダイエットを勧められている。「ブリキ猫を見ろ!彼はわたしが指令した三ヶ月で中国語の会話を理解できるようになったではないか!デブ、君も三ヶ月の猶予を言い渡す!その間にわたしの秘書程度まで痩せるように!」。これは本当の話である。お話を面白くするための作り事ではない。例に引き出された秘書も哀れである。彼女、先日結婚したばかり。ちょっと小太りのぽちゃぽちゃ。かわいらしい。しかし彼女を引き合いにするところが実に面白い会社なのである。

まあそれはそれとして、このデブを連れて三人、町に出た。廈門でも話題になっている食い物屋があるというので行ってみた。店の名前が「老知青 lao3 zhi1 qing1 」。七十年代の学生運動に荷担した人間には、「オッツ!あれか!」と手を打つに違いない。文化大革命という中国国内の内紛の時代、「下放 xia4 fang4 」といって、学生は実社会で体験を積め!地方に学べ!農村で働こう!運動があった。当時、わたしはいたく感激した記憶がある。どこかで今の千葉の片田舎のもとになったみたいなものかもしれない。「知青 (知識青年)」という名付けられた店、では一体どんな店なのか。

つたない翻訳でご紹介する。

・料理の分類:東北料理
・店の紹介:廈門の「比較的特徴ある」レストラン。店にはいると「文革時期の東北地方を思い出させる」、「至る所に毛沢東語録が」、「壁にはトウモロコシが掛けられ」、「椅子はオンドル」。服務員は「みな紅衛兵の格好を」、「緑色の軍服を身につけ」、「肩に軍包」、「さらにマネージャは軍用の水筒を」。餃子の味は「比較的まとも」、東北料理の味は「まあまあ」、「量がとても多く」、つまり「一寸雑」。価格は「高くはない」、口にしてみたいとお考えなら、おいでになって試してみるのも悪くないでしょう。

意地悪なわたしの運転手が一人の青年を捕まえて聞く。「鞄の中には毛語録入っているの?」、青年「はい」、運転手「じゃ見せて」、青年「いやいやいや・・・」。意地悪なあたし、彼らに声をかけてみる。「同志! tong1zhi4 」、誰も振り向かない。そりゃそうだろうな、ここの店で働いている若者たち、当時まだ生まれていなかったんだから。

[ 写真: 壁には軍用トラックに乗って下放する若者たちの姿を描いた漫画が。 ]

Wednesday, October 18, 2006

[廈門・133日] 家鴨を捌くと・・・


懸案だった家鴨を捌いたのが先週の日曜日。冷凍庫からこちこちだった家鴨を引き出し、半日掘っておいてもまだこちこちの姿を我が秘書は手際よく捌いていく。すでに鶏が捌かれるのを見ていたので衝撃は少なかったものの、やはり迫力がある。まな板の上でガッツ、バッキ、ドンドンと切り裂かれていく。その力強い包丁捌きであたりには骨付きの肉の塊が飛び散っていく。あとで拭き取るのの大変だったこと。

我が秘書は豚さんより鶏さんより家鴨の肉が大好きである。できあがった家鴨の料理をルパンIII似の前運転手と三人で食した。しかし、わたしには鶏の方が何倍にも美味しく感じられた。鶏の方が数倍脂っ気が少ない。野菜との取り合わせも悪くない。秘書さんの努力を評価するものの、古い日本人には家鴨より鶏の方が魚のほうが口に合う。

[ 写真: 左が冷凍庫から出したばかりの家鴨。右はそれを捌いている我が秘書の姿。 ]

Thursday, October 12, 2006

[廈門・127日] 游土楼-IV

土楼で生活してみる、できることなら。福建省の西部、福西地区に多く点在する土楼、観光用に整備され公開されているものもあれば、いまだになかで生活を営んでいる土楼もある。生活するには不十分な設備しか与えられておらず、作り直そうにも国家文化財の指定を受けていればそれもままならない。そのためか、土楼で生きている人たちには老人が多い。小さな子供の姿もしばしば見受けられるのは、両親が外地で働いているため、ジジババが孫の面倒を見ているからだ。

土楼を案内してくれたホテル嬢は、ここで生活している風景が「脏 zang1 (汚らしい) 」という。たしかにあちこち痛んでいたり、生ゴミが散らかっていたり、小動物の糞で靴を汚しそうになったりした。それでもわたしには汚らしいという感じはしなかった。なぜなら、ここには最新文明の産物がほとんど見当たらない。特に石化製品がない。おかげで空気も水も土も汚されずにすんでいる。わたしには桃源郷のような環境なのだ。

帰り際に前の運転手がこんなことを口にした。「burikinekoさん、ここに住みたいですか?土地は安いし、土楼を買って手を加えて土を耕せば長生きできますよ」。彼のわたしのライフスタイルを理解しての発言だ。一考の価値ありか、廈門に戻って頭の片隅から引き出してみた。ここ廈門は、わたしには、魅力的な小都市として映っていることに気がついた。ここの生活環境は棄てがたい。土楼への移住はしばらく先に考えることにした。

[ 写真: 土楼のなかを好き勝手に走り回って運動している家鴨たち。食するに適当に脂ののった肉になっているに違いない。 ]

Monday, October 9, 2006

[廈門・124日] 路地裏のDVDショップ

土楼見学から戻った翌日、廈門は青空が見え、この時期にこんなに蒸し暑いのかという日の夕方、わたしがルパンIVと呼ぶ前の運転手から電話が入った。家で食事をしないか?というもの。まもなく車がやってきて彼の家に向かった。

彼の住むあたりは廈門の旧市街の中心だったところ。洋館風三階建ての連続アーケードを持つ商店街にある。奥さんがメンズウェアの店を開いている。道幅は狭く、人と車が入り乱れている。子供たちの遊び場はこの街路、向こう三軒両隣の関係である。この店、以前は向かいに開いていた。隣人の家から出た火で内部が丸焼けになってしまい、移ってきたもの。内部は雑然とし、どう見てもどこもかしこも整理されているとは言い難い。

二階はルパンが手を入れて、仮住まいのように部屋が仕切られている。その一室のちょっと広い部屋でルパン手作り料理をご馳走になった。我が秘書の田舎味と違い、彼の味付けは薄くわたしの口にあった。肉料理が少なかったのは、わたしが肉をあまり口にしないのを知っているルパンの配慮だろう。かわりに魚が食卓に上がってきた。わたし以外の人間は手をつけなかった。魚はあまり人気がないようだ。

食事を終え、彼が廈門で最も賑やかだといわれている歩行者道路に出かけた。ここはやけににぎやか。モダンな店が並び、華やかに着飾った若者たちが溢れ、家族連れが路上のオープンテラスで飲料を口にしている。それにやけに長い。どこまでもどこまでも続いている。

すでに夜中の九時。彼の店に戻る途中ビデオショップを見かけた。聞いてみる。「韓国のDVDある?」、店の女性「ここにはないわ」、「あっそ」とわたし。すると彼女「ちょっと待って」。どこかに電話を入れると間をおかずに若い女性がやってきて手招き。我々を薄暗い路地裏に。「どこに行くの?」、「ついてくればいいの」。路地の奥の奥、曲がってまた曲がって、たどり着いたのが掘っ立て小屋のような建物。ここがビデオショップの本拠地だった。小さな部屋の中は棚いっぱいのDVD。学生らしい若者たちで溢れている。

あるわあるわ、韓国版だけでなく米国も本家中国のDVDも、最新版DVDはほとんどあるのではないだろうか。目についたものの中から素早く手に会計。うーん、この値段で手にはいるの?我々会計を済ませるとそそくさと木戸から外に出た。

家に戻りNHKで放映された「オール・イン」という連続劇を見てみる。問題ない。オーディオは韓国語と日本語、問題ない。サブトラック、韓国語と日本語。日本語をポチして再生してみるとどうだろう、そこには中国語が。そうなんだ、ここは中国なのだ。日本語をポチしても誰もそんなの見るわけない。中国語の学習用にはいいだろう、そう納得することにした。

[ 写真: わたしのご贔屓の二人。男優のイ・ビョンホン。女優のソン・ヘギョ。二人が競演の「オール・イン」と黒社会を描いて白眉な「甘い人生」。 ]

Sunday, October 8, 2006

[廈門・123日] 游土楼-III

饒舌なガイドの案内に頭の中がゴロゴロしたあと、四キロ先の高頭鎮高北村の土楼を訪れた。土楼が寄り集まっているわけでなく、ただただ大きな円楼と四角楼があるだけ。円楼は福建省の土楼の中でも最大だそうだ。四角楼は最も古いらしい。ここで見所だったのは、案内してくれた老人。若く、土楼に生まれ育ったわけではないガイドと違って、老人はここが生まれ出てから六十年あまりを過ごしてきた場所である。話に重みがある。実在感がある。おかげでわたしはこの土楼に愛着が生まれたぐらいだ。

特に風水を重んじた客家人が、いかに風水をこの土楼に応用していったかの話の部分は、建築を専門とする人間を引きつけるに十分だった。若く饒舌なガイド嬢も風水の関わりを説明してくれたが、老人の口から出た話は、道理を説いて面白いのだ。この話をご紹介したいのだが、ちょっといい加減になりそうなので、時間をかけ整理したら後日紹介してみたい。

円楼と四角楼をじっくり見学したあと、四角楼の出口でお茶していたご老人たちと雑談をしてきた。どうということのないとりとめのない会話だったが、腰を下ろし、煙草を交わし、ただただ時間が過ぎていった。不思議なもので、土楼の壁の暖かさがこちらにも伝わってきた。これは麗江古城では体験できなかったことだ。土は木よりも安定感を与えてくれた。

[ 写真: 円楼と四角楼の合間。ご老人はこの関係は風水から生まれたものだと語った。二つの建物には脈絡がなさそうだが、視線の先の建物が重要だという。この結果、円楼の外壁は長い間修理の必要がなかったのだという。確かに四角楼の外壁は痛みが大きかった。風道が関係しているのだろうか。 ]

Saturday, October 7, 2006

[廈門・122日] 剥き鶏

里帰りをしていた我が秘書が廈門に戻ってきた。帰りがてらに置き土産を置いていったのだが、それはなんと絞めて羽を剥いたあとの鳥肌だった裸の鶏と家鴨。ビニール袋に入れて担いできた。首元斬られ、はらわた抜かれた姿を間近で見るのは初めてな気がする。

彼女、さあ今日は鶏を喰らってしまおうというと、目の前で大なたふるって捌いていく。見事なのは鶏の頭、首元で切り落とすと、くちばしに刃先を入れてガッツ。見事二つに。いくら田舎育ちで、母親の料理を見てきたとはいえ、普通の少女にできることなのか。驚くと同時に、中国人はすごいなと傍らで感心しきりなあたし。大鍋でぐつぐつと半時ほど、地鶏のスープができあがった。肉もスープも堪えられない美味さであった。

わたしは幸せである。あれやこれや煩わしいことがいくつもあるにもかかわらず、そんなことも忘れさせてくれるこんな菜を喰らうことができ実に愉快である。

[ 写真: 秘書嬢、持ち込んだ裸の鶏を瞬く間に捌こうとするので、オイオイちょっと待っておくれと、あわててデジカメを持ち出し撮影をした。 ]

Friday, October 6, 2006

[廈門・121日] 中秋の名月なり

本来なら会社に出かけて四苦八苦している人間の手伝いをするはずだったこの休み、土楼見学と、それで疲れの出た体を休めるために使っている。手伝いを期待していた人間が皮肉を込めて電話をしてきた。「何してますかー、昼飯一緒しますかー」。結局彼ら出てこなかった。その代わりに夕飯あとの珈琲をおごる羽目に。

今日は中秋の名月、こちらでは中秋節 [ zhong1 qiu1 jie2 ] 。名月を観賞し、月餅を食し、そして博餅(ダイスの賭け事)をする。湖畔のコーヒーショップで我々は名月を眺めたものの、月餅も博餅も無い晩であった。家に戻ると隣の家からダイスの音が聞こえてくる。きっと家族で博餅を楽しんでいるのだろう。

前の運転手から「中秋快楽!」とショートメール。何事にも挨拶を欠かさないこと、こちらで生き残るための大切な礼節である。我が秘書は口酸っぱくわたしにこのことを説いて聞かせてくれていた。礼節を尊び、わたしも彼女へショートメールを送った。「中秋快楽!」。

[ 写真: ボケて見えるのはわたしの技術不足と光量不足。湖畔はネオンで飾られ、建物も光り輝く。ネオンが眠りにつくのは十時半。突然辺り一帯真っ暗になってしまう。 ]

Wednesday, October 4, 2006

[廈門・119日] 游土楼-II

永定という町から山中へと車を走らせる。ホテル嬢は携帯でなにやら連絡を取り合っている。見えてきた土楼。小振りだ。その脇の普通の民家。ホテル嬢の友人の家。何世帯かが共同で生活している。中庭では蜜蜂が飼われ、家鴨を飼育し、私がジャスミンではないかと間違えた花を乾燥させていた。薬草茶として売っているらしい。

ホテル嬢の友人、以前は隣の土楼で生活していたそうだ。この土楼、今では民間人が所有しているという。売り物として土楼は人気があるらしい。観光用に、民宿に、別荘用に、土楼は所有者をかえながら残り続けるのか。

最初に訪れた土楼群は、永定という町からしばらく山中を登っていったところにある湖坑鎮洪坑土楼群。四十六もの土楼のある村。入り口でチケットを購入、カートで見て回る。案内役にホテル嬢の同窓生が付く。博識である。ただうるさい。さかんに「なぜだか解りますか?」と質問してくる。解るか!さらに撮影場所を指定したりする。ここからの眺めが一番綺麗だとか何やらかんやら。ホテル嬢とルパンIII似の運転手をフレームに入れる。廈門の戻って看てみると、確かに様になった写真だった。口うるさいガイドさん、ありがとう。

ここは土楼のテーマパークなのである。ある土楼の中庭では客家人の結婚式を再現してたりしていた。とはいえ、麗江古城のような完全無欠の世界遺産お墨付きテーマパークのような白々しさはない。圧倒する土壁が人に勝っていた。

[ 写真: 高頭鎮高北村の土楼群。見る人を圧倒する。すでに夕方、みな疲れていた。近くに温泉があるというので向かうものの、原泉は少ないらしい。この季節では汗が出るだけだと食い物屋の主人。我々その忠告に従い帰路についた。ホテルにはいると直ぐさま眠りに。 ]

Tuesday, October 3, 2006

[廈門・118日] 游土楼

こちら廈門に来て念願だった麗江を訪れたものの、納四文化そのものが観光化されていたのを見て失望し、満州ではあまりにも荒れた風景に衝撃を受け、そこそ こに廈門に逃げ帰ってしまったまま過ごしてきた。ここ廈門は外地の人間にとってとても過ごしやすい都市なのだ。知らずに訪れたとはいえ、この地を紹介して くれた元ボスに感謝しなければならない。

現在「? [ 門+虫 ] 南古鎮」と名打った計画案がある。福建の歴史文化を建築群で表現しようという意欲的なもの。ただ意欲的なのはいいが私から見れば絵空事のような図面、これから建設を進めていく人間には多大な苦労が伴うだろう。

福建を代表する歴史的な建造物には、馬祖廟、騎楼、そして土楼を思い浮かべる。馬祖廟は海の守り神を祭ったもの。福建省の沿岸都市には何らかの馬祖廟を見 ることができる。台湾ではことさら多い。遠く東南アジアの華僑が移り住んだ都市でもしばしば見ることができる。騎楼、アーケードを持った商店街。高温多湿 でスコールの多い街に向いたつくり。これも集まって住み商売をする中華圏独特な風景だ。

そして土楼。最大八十メートルにも及ぶ円形の、最大一メートル八百もある厚い土壁で外部からの侵入を頑固に守るようつくられた集合住宅を指している。山奥 の、外部から人の近づきにくい地を選び、集団で生活し続けてきた客家人独特の住居だ。これを日本に紹介したのは同斑同学 [ tong2 ban1 tong2 xue2 同じ専攻の同級生 ] の K 教授。もう二十年前ぐらいのことだろうか。一冊の本になり、そこに収録された土楼を見、私はかなりの衝撃を受けたことを覚えている。中国は深いと。

国慶節の一週間の休みを利用し、一泊二日、私は期待の土楼を見に出かけてきた。今では観光拠点としてこの休みに訪れた人間は少なくない。それでも土楼は私を魅了してくれた。ここには実存感があった・・・。

[ 写真: 地図と土楼を紹介したガイドブックを手に、土楼群のある二つの地点を一日かけてみて回ってきた。まだまだ他の地に数多く残され、今でも一部の人たちが住み続けている。暇を見つけて全てを見て回るつもりだ。 ]

Sunday, October 1, 2006

[廈門・116日] 二時間遅れは常識

結婚式の始まりは二時間遅れが相場らしい。

昨夜、会社の女性の結婚式が執り行われ、私も参加してきた。中国で結婚式に出席するのは初めて。招待状には六時から始まると書かれていた。式場となった先日開幕のホテルに早めに出かけ、現場事務所で待機。六時半、一緒に参加する人が先に行きますよと声をかけてきた。

はいはいと私もそろそろ出かけるかと宴席に向かう。地下の大きなバンケットルーム、しかし人影はなし、オイオイ一体どうなっているんだ。仕方ないのでしばらく時間つぶしにコーヒーショップで高いエスプレッソを口にする。七時、また宴席に。二十ばかりの丸テーブルの半分が埋まっているだけ。席は決まっているわけでなく、勝手気ままに仲間同士が集まっている。お茶と雑談で時間をつぶすも、始まる気配はいっこうにない。

ボス連中が集まり始め、というか彼ら心得ている、いつ頃登場すればいいのかを。ここ廈門の結婚式の始まりは二時間遅れが当たり前だと隣に座った男が説明してくれた。一週間前にも同様結婚式があり、そのとき本来七時開催が九時半に始まったという。不思議な習慣である。とうてい日本では考えられない。おおらかといえばおおらか、しまりがないといえばしまりがない。それでも新郎新婦にとって晴れやかで数少ない誰もが祝福してくれるひとときである。お二人に幸あれ。

[ 写真: シャンパングラスにシャンパンを注ぐのがはやっているらしい。先日、ホテルの日本料理店開幕式典でも同じようにシャンパンイベントが行われた。 ]

Saturday, September 30, 2006

[廈門・115日] 戻る?留まる?

トップ同士の覇権争いの影響は下の人間にまで及んできた。金を握っているボスと仕事の実力でそれを奪おうとしている元ボス。おのおのの配下にある人間は、どちらに話を持って行っていいのか右往左往している。元ボスは私に「謀略」という言葉を投げかけてきた。どうもあれこれ時限爆弾を仕掛けているようだ。

金を握ることができずに現場の仕事に当たらなければならないほど厳しいことはない。なぜ現場に裁量権を与えないのか。当然トップ同士の紛争に他ならない。元ボスは何とか裁量権を得ようと日々「謀略」を張り巡らしているらしい。風説じみた話が伝わってきたり、組織の大変革を提案して影のボスがそれを了承したとか。開幕したばかりのホテルのブッフェでは、関連会社のトップの人間たちが、この話は出任せだとかがせネタだとかほら吹きがいるなどと旨い料理を食いながら話しているとか・・・。事実はどうなのか、乞うご期待と言うところだ。

元ボスに呼ばれてこちらにやってきた台湾の連中は不明瞭な給与体系にうんざりしている。金の件になると彼らの主張は力強くなる。GM同士仲が悪くても、この件では一致して上の人間にあたっている。すばらしい。なかには台湾に戻った方がどれほどいいかと私に口をとんがらせて話してくるものもいる。国に戻るか留まるか、決断しなければならない日が近づいている。

日本人ということで彼らに比べ比較的恵まれた待遇にある私は横目で騒動を傍観している。私ももっと主張すればいいのだが、この年までお金には無頓着だった習慣が身に付いてしまった。元ボスによく言われたものだ。「ヒッピーと同じ」だと。

[ 写真: マンションの中庭で先日開かれた博餅大会風景。子供の男女がペアダンスを披露。見事なものだった。 ]

Friday, September 29, 2006

[廈門・114日] 博餅( bo2 bing3 )

このところ廈門の夜は独特の賑わいで華やいでいる。量販店で飛ぶように売れているのが家庭用品やら日常雑貨品。それも大量に購入している。これらの品々が会社やレストランなどに運び込まれ、さいころの出目で勝負を競う「博餅( bo2 bing3 )」という遊びの景品となる。

国慶日に始まり月見の中秋節まで一週間の休暇になる前、老若男女、大人も子供もこの遊びに一喜一憂する。我がマンションの中庭でも博餅大会が開催され、二十ものテーブルに一組十二人、かわりばんこにダイスを振っていく。中国語授業そっちのけで、老師と私、参加してきた。マンションとあって、家族連れがほとんど。六つのさいころの出目で山と積まれた景品を手にしていく。六つというのも初めてだし、さいころの一と四が赤というのも初めて。参加者全員が輪になって代わる代わるさいころを振る。

一位はコーヒーメーカーだったりジューサーだったり。この一位は出目の一番大きいのを出した者が手にできる。一位だけは順番が入れ替わる。私は二位の出目を出したものの、最終的に三位に落ちてトップ賞は手に入らなかった。素朴といえば素朴な賭け事、お金が賭かっていないので、子供もダイスを握って大きなお椀に放り込む。出目の一番大きいのが四つの四と二つの一、隣のテーブルで出たのを見ただけだった。

この遊び、廈門独特な行事らしい。鄭成功時代に始められたという話とか、漢の時代の韓信という武将が兵士の慰みに始めたとか、西太后が脇に積まれた餅の山をみて思いついたとか、いろいろな話を聞かされた。どれが正しいのか解らない。とにもかくにも町中がこの一週間、博餅で賑わっているのだ。

[ 写真: 磁器製のお椀に振り込まれた賽子 ]

Thursday, September 28, 2006

[廈門・113日] 車社会へ

九月末、快晴が続く廈門。日ごと車の台数が増える廈門市内、おかげで出勤時間の渋滞の列が日々長くなっている。初めてここを訪れてから僅か半年、目に見えて厳しさは増している。ついに車社会になってしまったようだ。廈門市内では一日に五百台車が増えていると運ちゃんが話していた。小さな島でこの数、驚くべきことだ。

運転技術も急ごしらえの感がある。軽快に動かしている者がいる一方、だらだらと走る者、車線のどこを走ろうとしているのかも解らない運転。その車の合間を縫うように人間が車道を横切っていく。危ないことこの上ない。原因の一つに信号が少ない。極端に少ない。完全に車優先の道路計画だ。だからみな片側四車線の車道を横切る。大人も子供も老人も労働者も、中には自転車抱えて渡る者もいる。中央分離帯の植え込みから突然に人間が現れる。怖ろしい。本人はどう感じているのか。一体人身事故はどの程度起きているのだろうか、誰に聞いても解らない。他人のことは他人の責任なのだ。

新事務所ではボスたちが組織改革に血眼になっていて、私のポジションに全く無関心でいるし、そんな中で一人ぽつねんとしている私の様子を眺めていた我が秘書は、私が「度假」 ( du4 jia4 休暇 ) 中だと揶揄ってくる。下につく人間もおらず、責任もなく、勝手気ままに振る舞っている私への賛美の言葉だと私は受け取った。そう、私は旅にでているのです、旅先で見つけた仕事場にいるのです。そして「停・看・聴」、ひたすら周りを観察し続けているのです。実に愉快であります。

[ 写真: 公共バスの広告 ]