Sunday, April 6, 2014

花蓮:折に触れて三十年 林田山・森坂からメッセージ



 三十年近く前、’at’という建築雑誌の編集者と気ままにネタ探しの旅していたときのこと、台北の飲み屋で次はどっちを向こうか... 何があるかわからんけど花蓮なんかどうだ、しかし右も左もわからない、案内役がいるな...。飲み屋がハネて店のお姐さんたち誘って夜食にお粥を食べに出かけました。そこで聞いたんです。これこれの事情で花蓮方向に出かけようと思っている、誰か詳しい人いない?アテにしていませんでしたが一人のお姐さん手を上げました。

彼女が案内してくれたのは、 彼女の家、亭主の働く林務局・営林署の官舎でした。古びた木造住宅の官舎が集落をつくっていました。日本時代から続く檜の伐採の集積場所、それを管理していたところだったのです。既に伐採は禁じられ、かつては栄華を誇ったというここ林田山、土地の人たちが日本統治時代から「森坂」と呼んでいたところです。軌道をなくした駅舎跡を利用した雑貨屋だけのホームに編集者とゴロンと寝転がり、青空と迫った緑の濃い山を眺めながら「トトロが住んでいるみたいなとこだな...」とつぶやいたものでした。

台湾にはいまだに日本統治時代の産業遺産が多く残されていると知った私達は、その後台湾の日本官舎を、雑誌に「三つの村」と題して発表します。林業の森坂、鉱山の金瓜石・九分、塩水の台湾製糖工場です。

金瓜石・九分はホウ・シャオシェンの映画のロケ地として使われ、観光地に変貌してしまいます。様変わりは激しく、彼は後にそのことを強く嘆いています。
塩水の製糖工場はというと、平地、サトウキビ畑ですから平地でなければ成り立たない、開発にはもって来いという事で、立ち並ぶ日本家屋も防空壕も今では姿を消してしまったそうです。

「森坂」は少年時代に田舎をもたなかった私のキンダーブックになります。台湾にやってきた際に必ず立ち寄る場所になります。しかし木造住宅は年を取り、定年を迎えたこの地に住む営林署の職員は住み続けることが許されず、一人また一人と姿を消し、空き家が目につくようになります。建物の痛みが始まりました。なんとかこの村を残せないものだろうかと、日本の雑誌で取り上げてもらったりしましたが、当地の林務局は動かない。 それでは村の記録だけでもと、ある雑誌の取材の際に同行した院生の耳元で囁きました。「卒論、ここにしたら?」。

彼女は研究室一同七名とともにやってきて、村の変遷を、住民にヒアリング、住宅の利用形態の変遷を記録していきます。論文の完成後、報告とこれから村の姿を話しあうためのシンポジウムを開きました。

下に記した文は、その際ご厄介になった職員の方と先日再開した際、論文を作成した女性の近況を私に問うた返事になっています。

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Hualian: Morisaka Graduate's Association...
花蓮:林務局花蓮林区林田山林業文化園区・突然の森坂同窓会


写真左から
荘さん−林務局職員
林さん−林務局退職後文化園区案内センターにてボランティア活動中
李さん−台北市易之網董事長
李夫人−台北市都市計画局退職後計画局相談役

加藤さん、荘さんから切実なメッセージを頂いております。「加藤さん、今どうしていますか。よく整備された今の林田山を見に来てほしいのです。あと三四年で私も退職です。加藤さんが調査された村から、この林業の村から私は出ていかなければなりません」。
私からは加藤さんの今の状況を説明しておきました。次回、私がここを訪れる際には引っ張ってきます。それまでここにおいでですよね、と話すと荘さん「願わくば願わくば...」と手を合わせておりました。


林務局で働く原住民、阿美族の友人ケンちゃんはあいにく不在でした。ケンちゃん、新しいカミさんと問題なく過ごされておいでのようです。ケンちゃん、昔は 酒が好きでオンナが好きで檜の維持管理で山に入るとひと月降りてこないという生活していたんですね。「モリサカ」っていう野球チーム編成したりしていた。 紅葉少年野球隊やKANOの影響を強く受けていたんですね、原住民は。
 
この地は日本統治時代に檜や松、樟の木の伐採で賑わった地。十年前の公共電視台連続ドラマ「風中緋櫻」、原住民の反日反乱・霧社事件をテーマにした話のなかで何度となく登場しています。
(4月4日訪問)


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