Friday, November 16, 2007

[廈門・526天] skypeの友たちとの微妙な関係

先日skypeの友と漢詩の件で言い争いをした。どうもお互いしこりが残っているようで、わたしのコメント欄に台湾のポップスの一節を載せたところ、「おー、面白いこと言ってるわねー」(ENG)と、相手のコメント欄が反応してきた。数日後、「このところ疲れるんだー」(ENG)とコメント欄が書き換えられた。今度はわたしが反応し、「気持ちを開けば疲れることないんだよなー」(ENG)。

このコメント欄というのは、不特定多数に向けて書かれるもので、誰それに向けてというものではない。直接指名相手に書き込まれているのではない。だから、アタシに向けているのかどうかは特定できない性格のもの。それでも・・・かもしれない・・・で反応してみる。相手が然る者なら、それなりに対応していただける。

skypeはインターネットフォン、安く電話する、海外だろうがお構いなし、とわたしは当初おもっていた。そのつもりでこちらでも役立つだろうと考えていた。ところがここ中国ではいささか異なっていた。主な使いみちはチャット。だから音声で呼びかけても、「あー仕事場ですので話はできませーん」(CHN)とチャットで返事。彼ら、仕事の合間を使ってフル活用しているらしい。

河北のスカ友と交信が途絶えて久しい。当初、二人してかなり多岐にわたる話題で盛り上がっていた。最後は付き合いきれないよなー、というわたしの身勝手なところで幕を閉じた。

同じ廈門に住み、日本語を独学で学び、わたしを教材にしてくれた女性がいた。家に戻り、パソコンを開くと真っ先にチャットを求めてきたのも彼女だ。やはり長く付き合っていると疲れてしまった。わたしの勝手さからだ。

台湾から突然にメールが入る。数年前、仕事でアシストしてくれた米国系中国人からだ。かのフェアウェルパーティーがはねたところで、衆目のなか、わたしに駆け寄り、腕をわたしに回した美形だ。懐かしい。skypeでチャットを始めたが、英語でのやり取りに疲れて終わったままだ。

見ず知らずの人と会話を持続させることの難しさ、いつでも回線を切れる気楽さ、それがわたしの身勝手な道具、skypeである。(もちろん正しく有効に家族との絆を日々確かめておいでの麗江の若造のような方もおいでなのです。使い方はいろいろ、ご本人次第であります。)

[ MEMO: 諍いのあった台湾人、ご婦人と麗江に永住してみたいと話していた。麗江、住む場所じゃないとアタシは感じましたけど。 ]

Tuesday, November 13, 2007

[廈門・523天] 出逢いとそして別れと

いつの間にか居座ってしまった廈門、気がつけば五百日を超えている。目処を立ててきたはずなのだが、何がそうさせているのだろう。思うに、ここでは人との出会いと別れの場が多かったからではないか。心に残る出逢い、去っていった友とがあったからではないだろうか。次の出逢いを期待しているからかもしれない。

・デブのアレックスが去っていった。別れ際、「可愛いコさがして仲良く過ごしてください」の一言。日本留学の経験ある彼のおかげで、資料の翻訳に不自由はなかった。米国留学もあり、数少ない国際性を身につけていた一人だ。

・化学工場の工程管理をしていたリー君が去っていった。ここにきて、はじめてKTVに連れ出してくれたのは彼だ。彼のお気に入りの歌手、今ではわたしが、店で暇を持て余している彼女の、暇つぶしのメールに付き合わされている。彼の置きみやげはお手伝いさん。彼が去った後、わたしの面倒を見てくれている。

・工事管理部門の責任者、中国人の林さん。学歴経歴いうことなし。会議で話をさせればきっちり一時間話をしていた。その彼も去っていった。

・台湾人の医者と懇意になるには時間がかかった。かかった分、深い親密さを築いている。わたしがカフェの若い子と仲良くやっていると脇で軽蔑の眼差し、KTVでしこたま飲めば「酒だけはやめろ!」と忠告、長引いた喉の痛みをどーってことないと言いながら、ちゃんと薬の説明をしてくれていた。そのくせヘビースモーカーなのだ。

・先日女の子を出産した女性、彼女は思いっきり強烈な手助けをしてくれた。仕事場で実に不愉快な思いをした時のこと。彼女、わたしの顔を両手で優しく包み込み、慰めの言葉を口にし、帰りのバス、腕をとり、わたしの肩に顔を埋め、じっと寄り添ってくれていた。わたしは次第に心が和んでいった。この出来事を目にしていた仕事場の連中はたまげ、しばらく職場の全ての部門で話題になったという。そうだろう、わたしですら思いもよらなかったことだ。子供が生まれた今、もうそんなことは起こりえないだろう。

・かわいらしい元秘書兼元中国語の家庭教師とは、半年間、喜怒哀楽を共にした。わたしは彼女の喜怒哀楽を知るただ一人の男性となっている。おしゃべりで、余計なことに手を出すのが好きで、人の話を聞かず、自分勝手でと、いいことなしだが、世話好きなところで勝手のわからない外国人を助けてくれた。

うー、一寸ウルウル気分で書いてしまった。年のせいかなー。

[ MEMO: 一年半、どうにも馴染めなかったのが、開発部門の、同じ時期にやってきた台湾人の連中。俗に言う競争相手たちだ。この連中には今でもうんざりしている。 ]

Monday, November 12, 2007

[廈門・522天] 幕が下りたあと

その昔、代々木のカンボジア料理店にしばしば出入りしていた。かつては、今の店と少し離れた坂下の、寿司屋を改装することなく営業していた。小さな店のカウンターだけの店。店主は動乱期のカンボジアを逃れ日本にやってきた中国系ベトナム人。わたしたちは、席の空くまでの間、シンハビールを道路脇で立ち飲みしていた。

新しい店で、遅くまで飲んで食べ、店がはねたあと、店主、奥からウィスキーを取り出し、二人でグラスを空けた。傍らでは、従業員たちが遅い夜食をとっている。客のいなくなった店の空気はなぜかホッとしていた。わたしはこの時間が好きで、しばしば遅めに出かけたものである。

店がはねたあとに居残る習慣は台湾で憶えた。定宿のホテルの地下室、スナック、多くの時間をここで過ごした。夜食をとったり、ピアノの伴奏付きで歌ったり、中国語の予習復習の相手をしてもらったり、ときにピアノの先生や店の女性たちと賭け事をしたりと、仕事を終えたあとの、それぞれの人たちがホッとした時間を共に過ごしてきた。その時間には誰もが本音のでる時間でもあった。

代々木の店にしろ、台湾のホテルにしろ、なぜか客がいてはまずいなかにわたしはいた。酒が入り、もうろうとした感覚のなか、店の営業が落ちているとか、亭主との関係がどうだこうだとか、兵役中の彼が休暇を取ってやってきては喧嘩をしていた女性とか、幕の下りたあとの店は、1930年代のフランス映画みたいだった。

そんなことは過ぎ去った遠い思いで、とおもっていたら、ここで、またもや出くわす羽目になった。KTV、歌手、ママ、出演者はみな同じだ。客と相当飲み交わしたあとの彼ら、一日の終わり、煙草で淀んだ空気、匂いまで同じでだ。ここ廈門も東アジアなのだ。

[ MEMO: 同僚の若き妊婦、先週無事出産を終えた。女の子だそうだ。誰もが男の子だろうと、彼女の顔つきの変化から読んでいたものの、彼女の思惑通り女の子だった。子供はきっと、母親似の、おしゃれ好きな子で、二十年後には、着飾り、母親と競い合って買い物に出かけているに違いない。わたしの娘たちが味わえなかったことだ。ここ廈門でも、わたしはその時の彼女たちを見れることはないだろう。 ]

Sunday, November 11, 2007

[廈門・521天] 愛面子、愛惜、そして悲しき老人かな

先日、同じ時期にこちらにやってきた台湾人と一悶着あった。わたしはここではただ一人の日本人、なおかつ中国語を流暢にこなせない。言い争いをしようにも、口から先に生まれてきたような方々とはとうてい渡り合えない。最初から避けてとおってきた。そんなわたしでも、切羽迫るとキツイ一言が口に出てくる。

事の起こりはこうだ。元ボスがわたしを呼んだ。影のボスの要求に応えてくれと言う。元ボスとは今では部署が違う。本来ならお門違いなのである。しかし答えられる人間はわたししかいないのだから仕方がない。お手伝いをした。このプロジェクト管理をしているのが、かの台湾人。この件を知って彼自らも手を動かし始めた。それを知った元ボス、余計なことはするなと言い争いになったらしい。相当な言葉が行き来したとも聞いている。それもわたしを巡って。

彼、それ以降、突然わたしに対する態度が一変した。名前を呼びつけに、理由も言わず呼び出したり。わたしは争いごとが嫌いだ。仕方なく二人に同じ図面を手渡し説明することになった。ところがである、手直しに必要な情報が彼の手元にあったにもかかわらず、図面を書き終えたところでそれを見せられた。わたしはいたく腹を立て、彼の勝手さを罵った。思わぬカウンターパンチを喰らった彼、ドタドタしてしまった。それ以降、わたしは彼とまともに話をしていない。

こうなったのも、元ボスがわたしを高く評価するのに対し、彼をわたしの面前で非難することがたびたびあり、この件、彼をいたく傷つけていたのだ。さらに、面子を愛する彼、このところの組織替えで、地位が下がり、仕事の内容も限定され、送り迎えの車も取り上げられるらしい。彼は、彼が愛したプロジェクトにしがみついている、と元ボスがわたしに話した。元ボス、「愛惜 ( ai4xi1 ) 」という言葉を使っていた。愛惜かー、日本では今では死語だろうなー。

来週から、空席だった総経理の椅子に新しい人間がつくことになっている。彼が求めてやまなかったこの椅子、今では遠い彼方となってしまった。ある人曰、彼はここを去る決心をしたという。わたしより若いにもかかわらず、はるかに高齢を感じさせるように見える今日この頃の彼である。

リスペクト、ここで働く人間に今必要なのは、この一言だろう。(ヒロシさん、また愚痴ってしまいました。お許しください。)

[ MEMO: 真夜中に近い昨晩、KTVの歌手から電話が入った。明日の会議に出席したくないのでこれからきて指名してくれという。訳がわからないことをいう。さらにおしゃれしてきてねと。彼女も愛面子、わたしの友人は(友人である。彼女の客ではないのだ。)他のコの客とは違うのよ、というところを見せたかったのだろう。

寝酒が入ったところだったし、一昨日の会席でしこたま飲んだこともあり、出かけたくなかったものの、そこは女性に甘いburikinekoである。ステージ脇で、客のいなくなった席に、店の経理やママさんらと雑談を交わしてきた。彼ら、店の売り上げの話や、あの客がどうのこうのと、その日のあれこれを話していった。幕が下りたあとの、わたしの一番好きなひとときである。 ]

Sunday, November 4, 2007

[廈門・514天] 続・漢詩の一文をめぐる厄介な対話

わたしの手元に三種類の「水滸伝」があった。みな翻訳物だ。岩波文庫版、平凡社版、それに吉川英治版。堅く原本に忠実な翻訳の岩波版、読みやすい平凡社版、そしてもちろん面白いのは、こなれた日本語で書かれている吉岡英治版。作者吉岡英治の解釈が入り、原本から面白いとされる部分に強烈に手を加え、更に面白くしていた。この三つ、どれもが「水滸伝」なのだ。

わたしは「水滸伝」をエンターテイメントとして読んでいる。「水滸伝」の作者は不詳だ。もともと民間伝承されていた豪傑話に筋道をつけてまとめたのが始まりだとも言われている。時代が下がると更にいろいろな話を加えてふくらませたのだとも言う。

漢詩をその延長で語るわけにはいかない。唐詩にはれっきとした作者が存在する。読み人知らずはほんの僅かしかない。スカ友の言うように、原文は一つというのは道理である。しかし、時に原文の詮索に困ることもあるのだ。毛沢東が愛読した「水滸伝」と、中国建国以降、共産党が定めた定本「水滸伝」とが同じだったかどうか。

クラシック音楽(といっても、当時のはやり歌のようなものだが)。バッハのゴールドベルグ変奏曲、グレン・グールドというピアニストは、若い頃と晩年と二度収録をしている。聞き比べると全く違う曲のように聞こえてくる。

なんだかんだ屁理屈を並べ立ててみたが、絶対的な基準というのがないからこの世は面白いのだと言いたかっただけだ。(何でこんな事にこだわっているのか、自分でも不可解なのだが・・・)

そんなことはどうでもいい。昨夜、わたしは、この二週間、夜ごと夜ごと練習した当代歌謡曲を、KTVに出かけ、熱唱してきた。気分爽快である。

[ 写真: わたしの好きな「無間道-II」(インファナル・アフェア-II)という映画をインターネットで見た。しかし彼ら、中国語、つまり標準語で話していた。この映画、香港映画であり、もともと広東語でしゃべっている。感じがでない。香港黒社会の雰囲気がない。なおかつ、インターネット上には、標準語の他に、ミンナン語あり、四川語有りと、様々なアフレコ版があった。中国奇っ怪なり。 ]

Saturday, November 3, 2007

[廈門・513天] 漢詩の一文をめぐる厄介な対話

skypeのコメント欄を書き換えた。スカ友が自分のコメント欄に漢詩(こちらでは唐詩、本当はこれが正しいらしい)が書き加えられたのを見、おもわず懐かしい李白の詩の一節にした。一瞬のあと、チャットがやってきた。

スカ友:為什麼不是"望明月",而是"望山月"?(なぜ明月でなく山月なのですか?)

わたしがコメントに書き込んだ唐詩は、李白の「靜夜思」から。詩の全文は、

牀前看月光
疑是地上霜
舉頭望山月
低頭思故鄉

明らかに「山月」とある。えっ、えっ?スカ友の問いかけの意味がわからない。返事に「でででは調べてみます」。スカ友:「調べる必要はない、ここは明月なのだ」。インターネット上で探った結果を見てからわたし:「でも、日本の文献ではやはり山月でしたですー」。

誇り高き中国人のスカ友曰:

但這是中國古詩。你現在學唐詩,是不是應該學中國原版的呢?所以原版的是:"床前明月光,疑是地上霜。舉頭望明月,低頭思故鄉!"
(しかしですよ、これは中国の古詩です。アナタが今勉強している唐詩は原本のものですか?原本では「明月」です!)

と[!」マーク付きで返事が来た。これには[晕](クラッ)ときて、更にネット上で文献を当たってみると、

「・・・この詩は日本では、・・・舉頭望山月,低頭思故鄕。・・・これは、底本の違いや、日本では『唐詩選』(明・李攀龍)を重んずる伝統があるのに対して、中国では『唐詩三百首』(清・塘退士)を重んずるという習慣の違いのため。前者(『唐詩選』)は、盛唐に偏っているため、配慮が必要。・・・」

とある。そーか、二種類出回っているのだ。と、スカ友に伝えると、

「因為有名的古詩一定隻有一個版本。要尊重作者。所以不會出現不同書名,所以詩內容也不一樣的情況。尤其是中國的古詩!」。(なぜなら、有名な古詩には必ず一つの版本に二種類の詩があるのである。作者を尊重しなさい。ですから同じ書名でも、内容は同じではないのである。なおかつこれは中国の古詩であります!)

私たち日本人は、古典というものが、時代と共に内容の一部が書き換えられている事実を知っている。本物の原本がない場合、翻訳者は、注釈をつけてこの件に断りを入れている。ここはどこどこの何々本による、と。ここは中国である。二つの文、二つの解釈は許されないのだろう。

わたしは気分を悪くし、「アナタの意見に従うつもりはない」と送り返した。

しかし、しかしである。例え原文と違っていても、「明月」では明るすぎる。そのとき、李白の置かれていた状況に合わない。わたしは「山月」と書かれた雰囲気が好きだ。だからコメントは書き換えていない。

説教されたなー・・・。

[ 写真: 気分転換にKTVにいくことにした。この歌手と歌の練習でもしてこよう。ここでは、歌い間違えても文句を言う人間はいない。 ]