Friday, December 31, 2004

[追伸:台北通信] 13-Farewell Party-Last Night in Taipei

報 告会の方針がオーナーから了承されました。紆余曲折のもとでの了承です。私と私を手助けしてくれたBigMomとプレゼンを作成する信頼できる友人の三人 が求めた結果は出せそうにありません。それでも私の仕事はオーナーを健全な方向にむかわせることです。最後のまとめに入りましたが時間が迫っていました。 私の台湾滞在ビザがあと数日で切れます。帰国前日、私とBigMomは今回の報告書をどんなものに仕上げるかを話し合い、仕事の引継ぎを行いました。続い て信頼できる友人を交えて不足している資料の整理をしてみます・・・[写真は二ヶ月間お世話になった真夜中のホテル・ラウンジ]
事 務所の所長が私たちをせっつきます。早く終えなさいと。オオユキの送別会を事務所全員が参加して開くのだと。あわただしい一日でした。落ち着かないまま店 に向かいます。日本料理店の「坂城」というところです。今日で三度目です。店のママも最後の夜だというので席についてくれました。男気をもった友人が贈り 物だといってマイルドセブンをワンカートン手渡してくれました。事務所内の数少ない喫煙者同士の挨拶でもあります。私はグラスを手に一人一人に感謝の挨拶 をして回ります。夜になると決まってパパを迎えに来ていた婦人と小さな娘にも言葉をかけましたが、妹妹(小さな娘の一般的な愛称)には「やだ!」と断られ ました。

最も感謝しなければならないBigMomは最後にとっておきました。私が言葉をかけると、彼女から逆に「とてもたくさんのことを教わりました」といわれま す。うれしく思いました。なぜなら、何度か海外で仕事をしたなかで私から多くを吸収してくれた数少ない人間だったからです。一人はパラオの計画で今の仕事 のきっかけを作った信頼できる友人でした。そして今回のBigMom、アメリカの競争社会では決して経験できなかったことを体験したに違いありません。

酔ったほとぼりを冷ますため、ホテルのロビーで今夜の出来事を思い起こしていると、酔ってお店からなかなか出てこなかった中年の二人が尋ねてきました。い い気分のようでした。ただの珈琲を飲みながら二人は私を「好命な男」だとまた口にします。ホテルを去る時間は十二時だといい、それでも十五分をすぎてしま いました。彼らが去ったあともしばらくそのまま残りました。二ヶ月にわたる台湾滞在はこの日で終わりです。[追伸・台北通信]もこれで終わりです。

Thursday, December 30, 2004

[追伸:台北通信] 12-設計用具は計算器

き れいに撮れていませんが今回のプロジェクト・オーナーの直筆メモです。計画容積の確認を手計算でして見せてくれたものです。私も建物の概要を把握するため にすることはありますが、多くのデベロッパーにとって容積をどれだけ使い切るかは至上命題になります。敷地の条件が整理されると、容積計算から逆算で建物 の縦・横・高さが決まってきます。オーナーはセンチ単位で確認して見せます・・・

こ の計画に限らず、日本の最大手デベロッパーにしても去年蘇州の計画でも、デベロッパーにとって計算器が設計用具になります。こちらが絵にしたものから、彼 らはどの部分をいじればどれだけ面積を上乗せすることができるか、ただただひたすら寝ても起きても考えています。蘇州の女性デベロッパーは、朝起きると別 の条件を我々の元に持ってきました。これならばもっと面積増やせますよね、と。高級別荘地を蘇州の一等地に建てるつもりが、気がついてみるとスラム並の高 密度街区になっていたりしてしまいます。それでも彼らは更なる上積みを追い求めてきます。

この女性が一度、香港の事業者の話を聞きに出かけました。戻ってきたときに私が「計算器の修理はできましたか?」と問いかけました。きょとんとした顔つき をしていましたから、彼女話を理解できなかったようです。幸か不幸かこの計画は中断されました。場所が場所でした。認可が国家レベルにまであがってしまい ました。

私のような設計者は、それでもデベロッパーの意図をくみながら、適切なとか適当なとかバランスの取れたとか時代の中ではなどなどいいながら、デベロッパー のわがままをコントロールする努力は惜しみません。十分嫌われますが、それでも仕事の話がくるというのは、間違ったことをしているわけではないのだと思っ ています。

写真の左下に簡単なスケッチが写っています。これはオオユキサンのコンセプトはもっともだが、と言いながら私はこうしたいと彼が描いて手計算を始めたきっかけをつくったものです。

Wednesday, December 29, 2004

[追伸:台北通信] 11-生活を豊かにしてくれる日本のお店

仕 事で計画していた建物の地下4階分をリテイルにしようという話になっていました。百貨店(といっても日本の百貨店とは違い、欧州のものに近いです)ではな くショッピングモールが向いているのではないかと提案します。ところが台北には魅力的なモールがいくつもできているのだそうです。それでは・・・と出かけ てみました・・・

新 しい商業圏を作りつつある場所にストリート型のモールがあるそうです。規模は小さいのですが、有名店が多く入っていました。大通りに直接面した部分の上階 では何件かの日本のお店があります。紀伊国屋書店、HANDS、無印。生活を豊かにしてくれる日本のお店です。日本が豊かになるに連れて登場したお店で す。渋谷のあちこちを歩き回らなくてもここでみな賄えます。

私が台湾に来た直後、ミスタードーナツ第一号店が士林という町に開店しました。新聞によると、行列待ち四時間と書かれています。この行列は一月後も続いて いたようです。帰国二日前、BigMomが事務所のスタッフのためにミスタードーナツを買ってきてくれました。やはり人の列ができていたようです。メ ニューの中に、台湾向けの味付けとして油の多いドーナツというのがあるのだそうですが、残念ながらそれはありませんでした。

これには訳がありまして、そんな人気商品なら本家本元を食べてみたい、オオユキが戻ってくるときに買ってきて欲しいということです。それも全種類を。BigMomの提案でした。BigMomはそのお礼にとハンドメードケーキを用意してくれました。最高に美味でした。

それにしても、LuLuのサンドイッチ、その隣にあるトルコ料理店のケバブサンドなどなど、台北の味覚も徐々に変わりつつあるのでしょうね。

Tuesday, December 28, 2004

[追伸:台北通信] 10-国花も変わる?

十 月の終わりの週末、台湾東海岸の都市・花蓮を訪れたときのことです。市内にただ一箇所の小高い丘があります。ここに日本時代から使われていた建物があると いうので連れて行ってもらいました。この木造二階建ての建物は、市内と港を見渡せる絶好の場所に建てられていました。日本占領時代には、将校クラブとして 利用されていたようです。建物の名前を松園別館、きっと当時花蓮を統治していた人の名前かなと考えました・・・

建 物の作りもしっかりしていましたが、広大な庭には樹齢百年かと思われる立派な赤松が何本も残されています。この土地と建物、本来は国の持ち物でしたが、民 間に払い下げ、この辺り一帯を開発しようと考えたようです。一部の市民が立ち上がりました。松を残そうと。市民の輪は広がり、松の木を人が取り巻いて伐採 を阻止するまでになります。開発は中断され今では一民間人が管理をしています。当時をしのぶ展示とともに、美術展などを催していました。

その当時とは日本占領時代のことです。あれほどまでに嫌われた日本時代の遺産は、いま市民によって守られようとしていました。この動きはここだけに限らな いことでした。私の三年間の空白の後に訪れた台湾で、もっとも大きな変化ではなかったでしょうか。台北市内のかつての日本人墓地に建てられた違法建築を取 り壊し、公園に整備し、慰霊碑の計画も持ち上がっていると聞きます。

この動きは、昨日来日した李登輝さんが台湾総統になってからということのようです。政権政党だった国民党にありながら、徐々に台湾を自立させようという彼 の目論見は、徐々にそれまで目をつむってきた人々に影響を与えたのでしょう。阿扁と国民から愛称で持って呼ばれる陳水扁現総統は、憲法も国旗も国歌も国花 も本来の台湾のものではない、といついつまでに新しいものに変えましょうと提案しています。日本の占領時代は台湾の歴史の一部でったと素直に語りましょう と、教科書の書き換えも考えています。

東アジアでは徐々に政治的な摩擦が起きてきています。北朝鮮、中国、韓国、台湾、それに日本と、それぞれの国がそれぞれの立場を明確にしてきています。東 アジアはどうなっていくのでしょうか。これからは面白い東アジアのあちこちと語るには慎重さが必要になってくるのかもしれませんね。

Monday, December 27, 2004

[追伸:台北通信] 09-酒とオンナと・・・

今 日もメモの写真です。風景も人も今回はほとんどカメラに収めていません。それだけ仕事に熱中していたことでしょうか(事実です)。下班(退勤)時間は人さ まざまですが、決まりは朝の八時半から夜の六時半までだそうです。私は九時から夜の八時近くまで働いていました。一人で事務所を出て、一人で夜の食事をと る、そんな毎日でした。それでも週に一度くらいは誰かが誘いをかけてくれます。近くのイタリア料理店、タイ料理のお店、お酒も出る日本料理店、それに普通 の食堂。ごくごくまじめな生活でした・・・

そ んなわけでお酒が中心の席に誘われると、無作法をしてしまったりします。このプロジェクトのオーナーが、関係者一同をあつめて会食会を開きました。彼のホ テルの大広間に十数人、高級なウィスキーとワイン、豪華な料理、少し送れて登場したオーナーとともに食事は始まりました。私は仕事の緊張が抜けなかったの でしょか、酒が入り、料理が運ばれてきた辺りまでは記憶があるのですが、その先翌日の午後一時半まで、思い出せるのはわずかに三つばかりのシーンのみでし た。タバコを買いにいったこと、クラブらしいテーブルの目の前にオーナーが座っていたこと、どこかのカウンターで誰かが何かの手続きをしていること・・・

なんと十六時間もの間意識不明だったのです。気がつくと、見知らぬホテルのベットに横たわっていました。それもフロントからの電話、「延長しますか?」の 催促の電話が来るまで。「すぐ出ます、すぐ出ます」と下に下りてフロントで清算しようとするとすでに会計は終わっていました。カードの名義には事務所の古 株建築師の名前がありました。残されていたのはTシャツに残る強い香水のみでした。

古株建築師との関係はその日から始まりました。何度かの夜を二人で過ごします。一回目は私のおごりで、もう一回は彼からの盛大な宴席、新北投の酒家での宴 会でした。私のおごりはささやかに、内湖という郊外で古い台湾を残す飲み屋さん。新北投の宴会は、女性が脇に付きバンドが入ったにぎやかなものでした。

この彼、古い時代の台湾の味を持っています。話す言葉も台湾語中心ですし、仕草も格があります。いわゆる男気を見せています。男気が過ぎてついこの間まで 女房をもちませんでした。私の立ち振る舞いは、彼には苦々しく思えたに違いありません。「大行征、あなたは変人だ」と口にしますが、いろいろな場面で私を 諭す言葉をかけてきました。

彼は数年前までしていた仕事に誇りを持っていました。MRT、台北の新交通の駅舎工事を取り仕切ってきたことです。合衆国の顧問団相手に成し遂げてきたこ とです。私のデスクでMRTの説明をしながらその成果をメモにしてくれました。久しぶりに男気を思い出させてくれた台湾人でした。酒に酔ったあとはいつで も、私のホテルのラウンジでただの珈琲を二人で飲んで分かれたものです。帰る時間をはじめに表明して、そしてその通りに出て行きました。

Thursday, December 23, 2004

[追伸:台北通信] 08-Big Mom

「二ヶ月も出稼ぎに出かけていて、仕事は何をしていたのですか?blogでは人のことや古い町のことや食べ物のことしか書かれていませんが・・・」
「もちろん仕事で出かけたのですからしっかり働きましたよ」

ある台湾の大きな企業の手付かずの土地がありました。あれこれ計画は立ててきたのですが、実現までには到りませんでした。実現しなくても企業は困らないく らい他で仕事をして稼いでいました。ところがほっておけない事情が外からやってきました。敷地の前の道路に地下鉄駅ができることになったのです。地下道か らの出口が敷地のどまん前にボカッと出てくることがわかりました。これでは困ります。地下鉄工事も休んでいません、こちらも急がなければならなくなったの です・・・

こ の企業は複合ビルを造りたいと考えました。しかし今まで複合建築を企画したことがありません。どうしよう、と相談された先が私の先輩でした。先輩は「外国 人に頼むべし。日本に神様がいる」と声がかかったのが私でした。神様には参りましたが、いわゆる外圧を利用したらどうかというのが本音でしょう。

一ヵ月後にオーナーの大ボス、つまりおやじさんに報告できるレポートの作成が私めの役割です。来てみると資料もない、条件も整理されていない、何をやって いいのか分からない始末です。スタッフをつけてくれたのですが、これがハーバード出のアメリカ生まれの中国人女性でした。こちらに来てわずか七年、これで は私より台湾の法規や建築事情は疎いはずです。二人の外国人は、それでも毎日毎日一生懸命働きました。

彼女がスタッフについてくれたことは、私にとってあるメリットを生みました。彼女、台湾の習慣に縛られることがなかったのです。ここの設計事務所は、ある 意味企業の企画室でもありましたので、オーナーの意向を心得すぎていました。彼女と私は外国人、そんなのお構いなしです。合理的でないものは駄目なもの、 発想はフレキシブルであるもの。他の人たちがPCと取り組んでいる脇で、二人はフリーハンドの作業を進めました。

私がコンセプトを絵なり言葉で表現すると、彼女図書室をかき回し、数時間後にはスケッチを持ってきます。間違いがありません。質の高い回答をだしてくれま す。合衆国での厳しい競争を生き抜いてきたからか、仕事も速い。またたくさんのINDEXを持っていて、かつそのなかから最適な検索ができる。おかげでい い答えが出せましたが、ここの習慣に乗らない私たちには苦しい展開でもありました。なかなかオーナーの意図が見つけ出せなかったからです。滞在が長引いた 理由はそこにありました。

彼女との関係で難しい場面も出てきました。彼女、中国語はまだまだ発展途上だったのです。もちろん私より十分話せますが、漢字が苦手と来ています。漢字書 いて見せて、とせがむと怒っていました。メモは日本語から英語に、そして中国語へと翻訳されていきます。ここでも彼女の才能が活きてきました。私のメモは 彼女の翻訳で膨らみが与えられたのです。トンネルの先が見えないような作業が続いても、持ち堪えられたのは彼女が脇にいたからにほかありません。

一言。凄い美人でした。古典的な・・・今では見ることができないような・・・オバサンでした。私は「Big Mom」と呼んでいました。(すいません、写真はありません。写真を撮ると怒鳴られそうでして・・・)

[追伸:台北通信] 07-続・残された砦 「寶蔵巌」

「他 郷楼」、異国の館と訳すのが妥当かと思います。砦の山頂近くの路地で見つけました。彼らの故郷はどこなのでしょう。路地を行きかう人たちや、家の中から聞 こえる話し言葉に聞き覚えはありません。この砦だけの自治組織を持ち、少し前までは自警団がいて、砦の入り口にある警備ボックス近くには、モニターまでも 用意されています。そこまでしなければならなかった理由は何でしょうか、私には聞くすべを持ちませんでした。同化もせず、自分たち以外の人たちや組織を信 用せず、彼らの習慣を保ち続けてきた人たち、変えるのはやはり経済でしょうか。

Wednesday, December 22, 2004

[追伸:台北通信] 06-残された砦 「寶蔵巌」

一 昔前までの台北市内のいたるところに違法建築群がありました。いわゆるバラックです。仮説小屋ですね。なかには街区すべてがバラック群のところもありまし た。特に有名だったのは、南京東路と林森北路との交差点、林森北路をまたいだ一帯です。もともと日本時代には神社が建てられ、お墓のあったところだそうで す。日本の敗戦のあと、蒋介石といっしょに台湾に渡ってきた人たちの一部がここに住み着いたといいます。

残念なことに、この人たちは神社を取り壊し(鳥居の礎石は大きく重かったのでそのままバラック群の中に残されていたといいます)、お墓の石を使って基礎と し、その上に家を建てたと聞いています。私の記憶では、そんなことなど露も知らず、活気のある迷路のような細い路沿いの小さなお店が続く面白い場所という ものでした。国民党が政権基盤を弱くするにつれ、また都市再開発が進むにつれ、ここは本来の場所へ戻そうという運動が始まったようです。ほんの十年ほど前 のことでした。今ではきれいな公園に生まれ変わっています・・・

バ ラックはすぐに取り壊すこともできますが、こちらは一筋縄ではいきません。市内南の端、台湾大学を少しすぎて新店渓(川)と接する高台に出来上がった違法 建築の固まりは、時間とともに堅牢かつ幾重にも重なり合って築かれてきました。山と川に挟まれた、守りを固めるのに十分な立地条件を備えていました。独立 した自治組織を持ち、周りとは異なる言葉を話し、彼らが記念日とするその日には青天白日旗が家々に立てられます。こちらも急な坂道の路地をもち、車の出入 りもできません。ある壁には、いつの日か故郷に戻ろう!という標語がペンキで書かれていました。

私の知人で先輩のお嬢さんが台北市役所の文化局で働いています。たしか台北に来て三週間たった日曜日のことだったと思います。かねてから話のあった見学会 がもたれました。先輩のお嬢さんに連れられて、ここにやってきました。お嬢さんが今やろうとしていることは、これら台湾の複雑な歴史がつくってしまったも のを、用途転換しながら残せないだろうかという試みです。まず手始めに、芸術活動をこの砦の中で催し、住民に徐々に理解を得ながら修復へ持っていこうとい うことだそうですが、時間のかかる作業になることでしょう。

それにしても、小さな台湾の中で、このこと以外にも複雑な背景があることをいまさらながら驚かされます。大陸との関係、いまだに続く海外移民希望者のいること、華僑という私たちには理解できない人間関係などなど・・・

Tuesday, December 21, 2004

[追伸:台北通信] 05-激しい競争を生き抜くためには・・・

昨 日の[台北通信]でFedExとわたりあってくれたホテルフロントのお嬢さんです。フロントは二交代制!早朝から夜九時半までがワンクルー、そこから明け 方までがもうワンクルー、クルーは一日おきに代わります。昼間は女性クルーが、夜は男性クルー。三人一組です。それ以外にフロントの女性を仕切っている女 性一人にフロアを見回っている男性が一人。フロントの脇にインターネットカフェ(ホテルサービスの一環で無料です)が二十四時間開いていることもあり、ロ ビーに隣接するラウンジでは珈琲を無料で提供しています。私は二度ばかり真夜中にお世話になったことがあります。お酒を飲んだあとの一口です。

以前ご紹介したボーイの「お魚くん」いわく、ここの女性はよく替わるんだそうで、その度にやってきては「ニューフェースです」と紹介してくれました。何か 原因があるのでしょうね。私の滞在期間中にも数人が代わりましたし、一人はやめて二週間もした後に戻ってきたりしてます。あるときラウンジで珈琲を口にし ていると、フロアマネジャーが「彼女、今日で仕事終わりです」というので「エー、辞めちゃうのー」と残念そうに話しかけると、眼をウルウルさせて顔を横に 向けてしまいました。しばらくして戻ってきたのが彼女です・・・

フ ロアマネジャー以外はみな、英語名の小名(ニックネーム)がついています。フロントを仕切っている女性はなかなかの美人、一昔前の台湾の美人でしょうか、 落ち着きがあって大人で物静かで(な感じだということです)・・・彼女の小名はリンダ、かなり違うんじゃない、でした。日本語を理解できる数少ない人間で す。日本人の常連客はすぐに彼女を探してはあれこれ聴いているのを眼にしました。

夜中を仕事にしている男性の場合はというと、これがまたよくぞ揃えたというばかりにおほも達系なのです。なかでも髪を短くしカラーしている男がおります。 彼の上ずった声と腰つきと鍵を私に手渡す際の手つきなど思わずその指先を撫でてあげたくなるほどです。毛唐が多く寝泊りしていますから声をかけられないだ ろうか心配したりしてみたりしましたが。私が遅くに戻って鍵を受け取り立ち去ろうとすると「Good Night!」と甘い声が背中越しに聞こえてきました。

さて、写真のお嬢さんに戻りましょう。彼女、一見かわいらしいのですが、仕事バリバリ、対応すばやく、早口で内容いい加減。何しろ客への対応はすばらし い、客の顔と名前と部屋番号を瞬く間に記憶してしまい、私が戻ってくると「お帰りなさい!」といって鍵が目の前に出てきます。他の女性は、こちらからは見 えないカウンターに記されたリストに目をやりながらの対応ですから、彼女には太刀打ちできません。私が珈琲を飲む習慣のあるのを理解すると、「珈琲です ね」といいながら新人に指図します。しかし一方で「サブウェイ(日本にもあるサンドウィッチ屋さん)ってどこにあるの?」ときくと、正反対の方向を教えて くれたりもします。対応はすばやし、されど定かならず。生き抜くためには、出し抜くためにはこんな生き方も必要なのでしょうか。

部屋は常に満室状態のようでした。それでも空きが出ることがあります。若い二人がフロントで部屋代を聞いて諦めたかと思ったら戻ってなけなしの小遣いをは たきチェックインする様。若い女性を脇にベンツで乗り付けるおじさん。長期滞在でようやく見つけた(んだろうな)女子学生と有頂天になってエレベーターに 乗り込む外国の若者などなど。夜出かけることもなかった私が、ラウンジで何をすることもなく珈琲を飲みながらホテルの客や彼らの様子を見て感じたのは人さ まざまでしょうか。

Monday, December 20, 2004

[追伸:台北通信] 04-続・スマートフォンを購入してみると

[台 北通信]11月2日でご紹介したスマートフォン購入のいきさつです。台北に来て、仕事が軌道に乗り、余裕ができて、退屈しのぎに「欲しかったあの Treo600を手にして遊ぶか・・・」が始まりです。日本で購入もできたのですが、突然の呼び出しでそれもなりませんでしたし、海外でカードを使って別 の国から物を送ってもらうというのも乙津かと。これがややっこしさの始まりでした。

時々利用しているモバイル関係のインターネットショップにexpanSysという英国のお店があります。はじめて登録するときには、パスポートのコピーを ファックスで送れ、ファックスの映りが悪いからもう一度などなどかなりうるさいのですが、一度登録されるとあとは面倒なことはありません、銀行の残高が許 す限り購入可能です。価格が総じて他と比べて安い、最大の利用価値があります。Treo600というスマートフォンも、海外の他店や日本のお店より3万か ら4万安い。で、台北のホテルで一人このウェッブを覗き込むわけです・・・

expanSys は世界各国にブランチを持っています。しかし台湾にはありません。では台湾に送ってくれる支店はどこかと探すと、香港から送れることが分かりました。そこ で香港のexpanSysを覗いて注文を出します。私の登録住所は日本ですから、海外の送り先を別に記入しなければなりません。ことは順調に進みました。 あとは二日ほど寝て待てば手元にTreo600が届くはずでした。

expanSysから物を発送した旨のメールが届いてから五日たちました。まだ寝て待たなければならないのでしょうか。expanSysのデリバリーは FedExのみ、そのトラッキングを見てもすでに台湾の税関手続きを終えているとあります。しかし、その次の欄には「届け先不詳」と。おいおいおい、なん なんだこれは!続いてexpanSys本社からメールが入ります。「貴方の記載した届け先は存在しない、荷物は一度香港に戻してしまうぞ」なんて書いてあ ります。返事を書きました。「こちらには二つの届け先がある。一つは事務所で住所は○○で電話は××で、もう一つはホテルで住所は何々電話はこれこ れ・・・」。それでもこのまま私のTreo600が香港に戻されてしまったらどうしよう、あとの手続きがめんどくさい、ぐちゃぐちゃ・・・。

翌朝、心配のあまりホテルのカウンターのお嬢さんに手助けを求めます。「悪いけど台湾FedExに連絡してこれこれのオーダー番号で、トラッキングナン バーはあれこれで、こいつがどうなっているか聞いて?」。お嬢さん、快く「あいよ!」。ことは順調にいっているようでした。明日には届けるとFedExか ら返事をもらったとのことです。しかし物事そう上手くはいかないものです。次は税関からクレームが出たらしい。

FedExの女性「貴方の購入した品物はスマートフォンではないのか?」
私「そうです」
女性「スマートフォンを台湾に輸入するにはそれなりの税金を支払わなければならない。その額は特別物品税約6500元(日本円で約二万円)、それ以外に一般の物品税が2000元(日本円で約七千円)必要になる。よろしいかな?」
私「えっえっそんなに支払うのですか?困ったなー。でも仕方ないなー。はいはいです」
女性「ではパスポートのコピーと何がしかのコピーとお金を用意しときなさい。明日の朝届けさせます」
私「はいはいはいです」

翌日、指定の時間にホテルのロビーで待ちに待ったTreo600の入ったFedExBoxを待ちます。
電話が入りました。

FedExのオンナ「実は厄介な話があるがこの話は英語でするか?それとも中国語か?」
私「はいはいどちらでも・・・」
オンナ「○×△・・・で昨日要求した書類を□△×○してください」
私「すみません、最後の□△×○って何ですか?」
オンナ「今日本語の分かる人間がいないので、戻り次第連絡入れさせます」

待てど暮らせど音沙汰なしです。そのまま仕事に戻ります。

夜、ホテルに戻るとフロントの女性が私に声をかけてきました。
「オオユキさんの注文したものはスマートフォンではありませんよね!」
「あーはいはい」
「それなら税金は払わなくていいので、二千元だけ用意してください。明日届きますから。書類ももう必要ありません」

えらい!彼女は偉い!私がいない間にFedExと交渉してくれたのだ。見るに見かねて助け舟を出してくれたのだ。彼女はこの品物はPDAでありスマートフォンではないと言い張ったに違いない。

翌日ホテルから事務所に電話が入ります。FedExが待ってますと。すぐに戻ると、かっこいい二人の若者が私のFedExBoxを大事そうに両手に乗せて 立っていました。お金を支払いようやくTreo600は私のものになりました。すでに届いているはずの日にちから一週間が過ぎていました。 expanSys本社からも「完了!」とメールが届きます。

Friday, December 17, 2004

[追伸:台北通信] 03-台北の新都市交通

地 上約八メートル上空から台北市街を眺めた写真です。一昔前のSF風景そのものですね。二十世紀初頭、日本の技師たちが礎を築いた条里制の都市計画でできた 幅四十メートルの道路を、ラバータイヤを履いた新交通車両が走ります。地上にいても音は大きくありません。しかし早い。どのくらいでているのでしょうか。 独特の光景が新しい台北を見せてくれていました。子供のころを思い出して、車両の一番後部に座って写真を撮りました・・・

こ の路線は、私が宿泊したホテル付近の中山国小駅から木柵というところまで走っています。できたころは何かと評判が悪かったそうですが、他の路線の建設も進 み、地下鉄との組み合わせでほぼ主要な拠点が結ばれると、利用客は急増したようです。モーターバイクが貴重な足だった時代から、天候にも左右されず、服装 も着飾って移動ができますので女性の身なりも様変わりしていました。

値段ですが、前にもご紹介したプリペードカードを私は利用したためわかりません。赤字覚悟で計画したものだそうなので、バスとそんなに変わらないのではな いでしょうか。私は東京にいたときのように、ちょっとした買い物にもこの線を利用していました。あっ、もちろん無人で動いています。技術はフランスからと 聞いています。この新交通、現地では「捷運」と呼んでいます。

[追伸:台北通信] 02-「鼓馨若響」に救われた二ヶ月

写 りが悪くて分かりにくいかもしれませんが、わたしのiTunesのリストの一部です。台北でのきつい仕事を和ませてくれた一曲を三人の歌手が歌っていま す。昨年、蘇州での厳しい仕事を救ってくれたのも一つの曲、台湾の歌手・張恵妹が歌っていた「聴海」だったのですが、そのアルバムにあった台湾語の一曲、 それが「鼓馨若響」という題名でした。

蘇州から帰国後も、「聴海」ではなく「鼓馨若響」をしばしば繰り返し聴いていました。タンゴのリズムで歌われる雰囲気がなんとも心地よかったからです。今 回も張恵妹が歌う「鼓馨若響」を聴いていたのですが、あるときこの元歌は別にあることを知りました。そしてホテルの近所にある「韓泰美食」という夜食をと りにしばしば訪れていた餐庁(レストラン)で探し当てました・・・

と いうより「鼓馨若響」の元歌を探しているんだけど・・・という問いに店の兄貴が答えてくれたのです。陳昇がその歌手。かれは次に私が店を訪れたときには彼 のCDを用意していました。「この歌は陳昇よりも江恵が一番さ!ただ古い歌だからねー、店では売っていないよ」。江恵は新北投などの歓楽街で、バンドを連 れて酒家などの客の宴席で歌っていた歌手だそうです。向こうで言う「ながし」のことです。聴いてみたくなりました。

江恵の「鼓馨若響」もやはりこの餐庁から手にすることができました。店で流しているバックグラウンド・ミュージックのなかにありました。一度で気に入りま した。甘酸っぱいタンゴのリズムと物悲しい節回し、仕事のことで頭がパンパンになっている外国人の顧問にとって、彼女の声の切なさには酒に酔いかけた味が ありました。陳昇の歌う「鼓馨若響」はどうもコメディアンが会い方とやり取りしながら歌っているような、おふざけな節回しです。それにたいして張恵妹が歌 う「鼓馨若響」は格がある、すばらしいのですが何度も聴くと疲れてしまう。

ということでわたしのiTunesのリストには、この三人の「鼓馨若響」が並ぶことになったのです。そしてホテルでいただいた金門の五十八度の白酒をのどに流しながら聞き入っていました。

Thursday, December 16, 2004

[追伸:台北通信] 01-LuLuのサンドイッチ

長い間中断させていた[東アジアは停看聴]ですが、ここしばらくは今年の十月半ばから十二月半ばまで滞在した台湾の生活をご紹介していきたいと思います。ということで「台北通信」は「勝間通信」からこちらで引き継ぎます。

まず食生活の変化。当初毎日のように通っていた「素食」でしたが、いくら「素食」とはいえ野菜類は油でいためてから調理に入ります。植物油とはいえ、所詮 油に変わりありません。すぐにお腹がもたれるようになりました。勝間の田舎で鰯と豆腐と納豆の生活を長く続けていた身にはこたえました。年なんでしょう ね、十年前まではなんてことはなかったのですから・・・

事 務所に合衆国で長く生活していた人間がいます。愛想がものすごく悪いのです。四角四面は顔だけではありません。言うこともすることも四角四面。この彼、意 外と優しく親切でした。あるとき、事務の女性に「美味しいサンドウィッチ、どこかで売ってない?」と聞くと、彼の名前が挙がりました。恐る恐るたずねてみ ます。彼、なんとわざわざ私を連れてその店にまでついてきて、私が注文しているのを後ろから心配そうに覗いています。「大丈夫、大丈夫、引き取ってくださ い」。

この店がLuLuという名前でした。ほしいものが切れているとその場で作ってくれます。私はツナ・サンド専門でした。飲み物はヨーグルトか「今日湯」・今 日のスープ。どれも美味しくそれ以降つど訪れました。私の風采からか、すぐに外国人と解かった店の女性たちは英語で注文をとります。この付近には外国の企 業が多く、中華の味になじめない、または私のように中華に食傷気味の人たちの救いとなっているようでした。

帰国間もないころには、店の扉を開けるとすぐに「ハーィ!」と声がかかるようになっていました。ツナ・サンドが50元、ヨーグルトは25元、スープは35 元です。日本円に直すと250円から280円、安いですね。物価の感覚は日本の半分程度でしょうか。おかげで無駄遣いもせず、体の調子を崩すこともありま せんでした。

それにしてもこの紙(!)袋、雰囲気ありますね、1950年代の匂いが漂っています。