Friday, December 31, 2004

[追伸:台北通信] 13-Farewell Party-Last Night in Taipei

報 告会の方針がオーナーから了承されました。紆余曲折のもとでの了承です。私と私を手助けしてくれたBigMomとプレゼンを作成する信頼できる友人の三人 が求めた結果は出せそうにありません。それでも私の仕事はオーナーを健全な方向にむかわせることです。最後のまとめに入りましたが時間が迫っていました。 私の台湾滞在ビザがあと数日で切れます。帰国前日、私とBigMomは今回の報告書をどんなものに仕上げるかを話し合い、仕事の引継ぎを行いました。続い て信頼できる友人を交えて不足している資料の整理をしてみます・・・[写真は二ヶ月間お世話になった真夜中のホテル・ラウンジ]
事 務所の所長が私たちをせっつきます。早く終えなさいと。オオユキの送別会を事務所全員が参加して開くのだと。あわただしい一日でした。落ち着かないまま店 に向かいます。日本料理店の「坂城」というところです。今日で三度目です。店のママも最後の夜だというので席についてくれました。男気をもった友人が贈り 物だといってマイルドセブンをワンカートン手渡してくれました。事務所内の数少ない喫煙者同士の挨拶でもあります。私はグラスを手に一人一人に感謝の挨拶 をして回ります。夜になると決まってパパを迎えに来ていた婦人と小さな娘にも言葉をかけましたが、妹妹(小さな娘の一般的な愛称)には「やだ!」と断られ ました。

最も感謝しなければならないBigMomは最後にとっておきました。私が言葉をかけると、彼女から逆に「とてもたくさんのことを教わりました」といわれま す。うれしく思いました。なぜなら、何度か海外で仕事をしたなかで私から多くを吸収してくれた数少ない人間だったからです。一人はパラオの計画で今の仕事 のきっかけを作った信頼できる友人でした。そして今回のBigMom、アメリカの競争社会では決して経験できなかったことを体験したに違いありません。

酔ったほとぼりを冷ますため、ホテルのロビーで今夜の出来事を思い起こしていると、酔ってお店からなかなか出てこなかった中年の二人が尋ねてきました。い い気分のようでした。ただの珈琲を飲みながら二人は私を「好命な男」だとまた口にします。ホテルを去る時間は十二時だといい、それでも十五分をすぎてしま いました。彼らが去ったあともしばらくそのまま残りました。二ヶ月にわたる台湾滞在はこの日で終わりです。[追伸・台北通信]もこれで終わりです。

Thursday, December 30, 2004

[追伸:台北通信] 12-設計用具は計算器

き れいに撮れていませんが今回のプロジェクト・オーナーの直筆メモです。計画容積の確認を手計算でして見せてくれたものです。私も建物の概要を把握するため にすることはありますが、多くのデベロッパーにとって容積をどれだけ使い切るかは至上命題になります。敷地の条件が整理されると、容積計算から逆算で建物 の縦・横・高さが決まってきます。オーナーはセンチ単位で確認して見せます・・・

こ の計画に限らず、日本の最大手デベロッパーにしても去年蘇州の計画でも、デベロッパーにとって計算器が設計用具になります。こちらが絵にしたものから、彼 らはどの部分をいじればどれだけ面積を上乗せすることができるか、ただただひたすら寝ても起きても考えています。蘇州の女性デベロッパーは、朝起きると別 の条件を我々の元に持ってきました。これならばもっと面積増やせますよね、と。高級別荘地を蘇州の一等地に建てるつもりが、気がついてみるとスラム並の高 密度街区になっていたりしてしまいます。それでも彼らは更なる上積みを追い求めてきます。

この女性が一度、香港の事業者の話を聞きに出かけました。戻ってきたときに私が「計算器の修理はできましたか?」と問いかけました。きょとんとした顔つき をしていましたから、彼女話を理解できなかったようです。幸か不幸かこの計画は中断されました。場所が場所でした。認可が国家レベルにまであがってしまい ました。

私のような設計者は、それでもデベロッパーの意図をくみながら、適切なとか適当なとかバランスの取れたとか時代の中ではなどなどいいながら、デベロッパー のわがままをコントロールする努力は惜しみません。十分嫌われますが、それでも仕事の話がくるというのは、間違ったことをしているわけではないのだと思っ ています。

写真の左下に簡単なスケッチが写っています。これはオオユキサンのコンセプトはもっともだが、と言いながら私はこうしたいと彼が描いて手計算を始めたきっかけをつくったものです。

Wednesday, December 29, 2004

[追伸:台北通信] 11-生活を豊かにしてくれる日本のお店

仕 事で計画していた建物の地下4階分をリテイルにしようという話になっていました。百貨店(といっても日本の百貨店とは違い、欧州のものに近いです)ではな くショッピングモールが向いているのではないかと提案します。ところが台北には魅力的なモールがいくつもできているのだそうです。それでは・・・と出かけ てみました・・・

新 しい商業圏を作りつつある場所にストリート型のモールがあるそうです。規模は小さいのですが、有名店が多く入っていました。大通りに直接面した部分の上階 では何件かの日本のお店があります。紀伊国屋書店、HANDS、無印。生活を豊かにしてくれる日本のお店です。日本が豊かになるに連れて登場したお店で す。渋谷のあちこちを歩き回らなくてもここでみな賄えます。

私が台湾に来た直後、ミスタードーナツ第一号店が士林という町に開店しました。新聞によると、行列待ち四時間と書かれています。この行列は一月後も続いて いたようです。帰国二日前、BigMomが事務所のスタッフのためにミスタードーナツを買ってきてくれました。やはり人の列ができていたようです。メ ニューの中に、台湾向けの味付けとして油の多いドーナツというのがあるのだそうですが、残念ながらそれはありませんでした。

これには訳がありまして、そんな人気商品なら本家本元を食べてみたい、オオユキが戻ってくるときに買ってきて欲しいということです。それも全種類を。BigMomの提案でした。BigMomはそのお礼にとハンドメードケーキを用意してくれました。最高に美味でした。

それにしても、LuLuのサンドイッチ、その隣にあるトルコ料理店のケバブサンドなどなど、台北の味覚も徐々に変わりつつあるのでしょうね。

Tuesday, December 28, 2004

[追伸:台北通信] 10-国花も変わる?

十 月の終わりの週末、台湾東海岸の都市・花蓮を訪れたときのことです。市内にただ一箇所の小高い丘があります。ここに日本時代から使われていた建物があると いうので連れて行ってもらいました。この木造二階建ての建物は、市内と港を見渡せる絶好の場所に建てられていました。日本占領時代には、将校クラブとして 利用されていたようです。建物の名前を松園別館、きっと当時花蓮を統治していた人の名前かなと考えました・・・

建 物の作りもしっかりしていましたが、広大な庭には樹齢百年かと思われる立派な赤松が何本も残されています。この土地と建物、本来は国の持ち物でしたが、民 間に払い下げ、この辺り一帯を開発しようと考えたようです。一部の市民が立ち上がりました。松を残そうと。市民の輪は広がり、松の木を人が取り巻いて伐採 を阻止するまでになります。開発は中断され今では一民間人が管理をしています。当時をしのぶ展示とともに、美術展などを催していました。

その当時とは日本占領時代のことです。あれほどまでに嫌われた日本時代の遺産は、いま市民によって守られようとしていました。この動きはここだけに限らな いことでした。私の三年間の空白の後に訪れた台湾で、もっとも大きな変化ではなかったでしょうか。台北市内のかつての日本人墓地に建てられた違法建築を取 り壊し、公園に整備し、慰霊碑の計画も持ち上がっていると聞きます。

この動きは、昨日来日した李登輝さんが台湾総統になってからということのようです。政権政党だった国民党にありながら、徐々に台湾を自立させようという彼 の目論見は、徐々にそれまで目をつむってきた人々に影響を与えたのでしょう。阿扁と国民から愛称で持って呼ばれる陳水扁現総統は、憲法も国旗も国歌も国花 も本来の台湾のものではない、といついつまでに新しいものに変えましょうと提案しています。日本の占領時代は台湾の歴史の一部でったと素直に語りましょう と、教科書の書き換えも考えています。

東アジアでは徐々に政治的な摩擦が起きてきています。北朝鮮、中国、韓国、台湾、それに日本と、それぞれの国がそれぞれの立場を明確にしてきています。東 アジアはどうなっていくのでしょうか。これからは面白い東アジアのあちこちと語るには慎重さが必要になってくるのかもしれませんね。

Monday, December 27, 2004

[追伸:台北通信] 09-酒とオンナと・・・

今 日もメモの写真です。風景も人も今回はほとんどカメラに収めていません。それだけ仕事に熱中していたことでしょうか(事実です)。下班(退勤)時間は人さ まざまですが、決まりは朝の八時半から夜の六時半までだそうです。私は九時から夜の八時近くまで働いていました。一人で事務所を出て、一人で夜の食事をと る、そんな毎日でした。それでも週に一度くらいは誰かが誘いをかけてくれます。近くのイタリア料理店、タイ料理のお店、お酒も出る日本料理店、それに普通 の食堂。ごくごくまじめな生活でした・・・

そ んなわけでお酒が中心の席に誘われると、無作法をしてしまったりします。このプロジェクトのオーナーが、関係者一同をあつめて会食会を開きました。彼のホ テルの大広間に十数人、高級なウィスキーとワイン、豪華な料理、少し送れて登場したオーナーとともに食事は始まりました。私は仕事の緊張が抜けなかったの でしょか、酒が入り、料理が運ばれてきた辺りまでは記憶があるのですが、その先翌日の午後一時半まで、思い出せるのはわずかに三つばかりのシーンのみでし た。タバコを買いにいったこと、クラブらしいテーブルの目の前にオーナーが座っていたこと、どこかのカウンターで誰かが何かの手続きをしていること・・・

なんと十六時間もの間意識不明だったのです。気がつくと、見知らぬホテルのベットに横たわっていました。それもフロントからの電話、「延長しますか?」の 催促の電話が来るまで。「すぐ出ます、すぐ出ます」と下に下りてフロントで清算しようとするとすでに会計は終わっていました。カードの名義には事務所の古 株建築師の名前がありました。残されていたのはTシャツに残る強い香水のみでした。

古株建築師との関係はその日から始まりました。何度かの夜を二人で過ごします。一回目は私のおごりで、もう一回は彼からの盛大な宴席、新北投の酒家での宴 会でした。私のおごりはささやかに、内湖という郊外で古い台湾を残す飲み屋さん。新北投の宴会は、女性が脇に付きバンドが入ったにぎやかなものでした。

この彼、古い時代の台湾の味を持っています。話す言葉も台湾語中心ですし、仕草も格があります。いわゆる男気を見せています。男気が過ぎてついこの間まで 女房をもちませんでした。私の立ち振る舞いは、彼には苦々しく思えたに違いありません。「大行征、あなたは変人だ」と口にしますが、いろいろな場面で私を 諭す言葉をかけてきました。

彼は数年前までしていた仕事に誇りを持っていました。MRT、台北の新交通の駅舎工事を取り仕切ってきたことです。合衆国の顧問団相手に成し遂げてきたこ とです。私のデスクでMRTの説明をしながらその成果をメモにしてくれました。久しぶりに男気を思い出させてくれた台湾人でした。酒に酔ったあとはいつで も、私のホテルのラウンジでただの珈琲を二人で飲んで分かれたものです。帰る時間をはじめに表明して、そしてその通りに出て行きました。

Thursday, December 23, 2004

[追伸:台北通信] 08-Big Mom

「二ヶ月も出稼ぎに出かけていて、仕事は何をしていたのですか?blogでは人のことや古い町のことや食べ物のことしか書かれていませんが・・・」
「もちろん仕事で出かけたのですからしっかり働きましたよ」

ある台湾の大きな企業の手付かずの土地がありました。あれこれ計画は立ててきたのですが、実現までには到りませんでした。実現しなくても企業は困らないく らい他で仕事をして稼いでいました。ところがほっておけない事情が外からやってきました。敷地の前の道路に地下鉄駅ができることになったのです。地下道か らの出口が敷地のどまん前にボカッと出てくることがわかりました。これでは困ります。地下鉄工事も休んでいません、こちらも急がなければならなくなったの です・・・

こ の企業は複合ビルを造りたいと考えました。しかし今まで複合建築を企画したことがありません。どうしよう、と相談された先が私の先輩でした。先輩は「外国 人に頼むべし。日本に神様がいる」と声がかかったのが私でした。神様には参りましたが、いわゆる外圧を利用したらどうかというのが本音でしょう。

一ヵ月後にオーナーの大ボス、つまりおやじさんに報告できるレポートの作成が私めの役割です。来てみると資料もない、条件も整理されていない、何をやって いいのか分からない始末です。スタッフをつけてくれたのですが、これがハーバード出のアメリカ生まれの中国人女性でした。こちらに来てわずか七年、これで は私より台湾の法規や建築事情は疎いはずです。二人の外国人は、それでも毎日毎日一生懸命働きました。

彼女がスタッフについてくれたことは、私にとってあるメリットを生みました。彼女、台湾の習慣に縛られることがなかったのです。ここの設計事務所は、ある 意味企業の企画室でもありましたので、オーナーの意向を心得すぎていました。彼女と私は外国人、そんなのお構いなしです。合理的でないものは駄目なもの、 発想はフレキシブルであるもの。他の人たちがPCと取り組んでいる脇で、二人はフリーハンドの作業を進めました。

私がコンセプトを絵なり言葉で表現すると、彼女図書室をかき回し、数時間後にはスケッチを持ってきます。間違いがありません。質の高い回答をだしてくれま す。合衆国での厳しい競争を生き抜いてきたからか、仕事も速い。またたくさんのINDEXを持っていて、かつそのなかから最適な検索ができる。おかげでい い答えが出せましたが、ここの習慣に乗らない私たちには苦しい展開でもありました。なかなかオーナーの意図が見つけ出せなかったからです。滞在が長引いた 理由はそこにありました。

彼女との関係で難しい場面も出てきました。彼女、中国語はまだまだ発展途上だったのです。もちろん私より十分話せますが、漢字が苦手と来ています。漢字書 いて見せて、とせがむと怒っていました。メモは日本語から英語に、そして中国語へと翻訳されていきます。ここでも彼女の才能が活きてきました。私のメモは 彼女の翻訳で膨らみが与えられたのです。トンネルの先が見えないような作業が続いても、持ち堪えられたのは彼女が脇にいたからにほかありません。

一言。凄い美人でした。古典的な・・・今では見ることができないような・・・オバサンでした。私は「Big Mom」と呼んでいました。(すいません、写真はありません。写真を撮ると怒鳴られそうでして・・・)

[追伸:台北通信] 07-続・残された砦 「寶蔵巌」

「他 郷楼」、異国の館と訳すのが妥当かと思います。砦の山頂近くの路地で見つけました。彼らの故郷はどこなのでしょう。路地を行きかう人たちや、家の中から聞 こえる話し言葉に聞き覚えはありません。この砦だけの自治組織を持ち、少し前までは自警団がいて、砦の入り口にある警備ボックス近くには、モニターまでも 用意されています。そこまでしなければならなかった理由は何でしょうか、私には聞くすべを持ちませんでした。同化もせず、自分たち以外の人たちや組織を信 用せず、彼らの習慣を保ち続けてきた人たち、変えるのはやはり経済でしょうか。

Wednesday, December 22, 2004

[追伸:台北通信] 06-残された砦 「寶蔵巌」

一 昔前までの台北市内のいたるところに違法建築群がありました。いわゆるバラックです。仮説小屋ですね。なかには街区すべてがバラック群のところもありまし た。特に有名だったのは、南京東路と林森北路との交差点、林森北路をまたいだ一帯です。もともと日本時代には神社が建てられ、お墓のあったところだそうで す。日本の敗戦のあと、蒋介石といっしょに台湾に渡ってきた人たちの一部がここに住み着いたといいます。

残念なことに、この人たちは神社を取り壊し(鳥居の礎石は大きく重かったのでそのままバラック群の中に残されていたといいます)、お墓の石を使って基礎と し、その上に家を建てたと聞いています。私の記憶では、そんなことなど露も知らず、活気のある迷路のような細い路沿いの小さなお店が続く面白い場所という ものでした。国民党が政権基盤を弱くするにつれ、また都市再開発が進むにつれ、ここは本来の場所へ戻そうという運動が始まったようです。ほんの十年ほど前 のことでした。今ではきれいな公園に生まれ変わっています・・・

バ ラックはすぐに取り壊すこともできますが、こちらは一筋縄ではいきません。市内南の端、台湾大学を少しすぎて新店渓(川)と接する高台に出来上がった違法 建築の固まりは、時間とともに堅牢かつ幾重にも重なり合って築かれてきました。山と川に挟まれた、守りを固めるのに十分な立地条件を備えていました。独立 した自治組織を持ち、周りとは異なる言葉を話し、彼らが記念日とするその日には青天白日旗が家々に立てられます。こちらも急な坂道の路地をもち、車の出入 りもできません。ある壁には、いつの日か故郷に戻ろう!という標語がペンキで書かれていました。

私の知人で先輩のお嬢さんが台北市役所の文化局で働いています。たしか台北に来て三週間たった日曜日のことだったと思います。かねてから話のあった見学会 がもたれました。先輩のお嬢さんに連れられて、ここにやってきました。お嬢さんが今やろうとしていることは、これら台湾の複雑な歴史がつくってしまったも のを、用途転換しながら残せないだろうかという試みです。まず手始めに、芸術活動をこの砦の中で催し、住民に徐々に理解を得ながら修復へ持っていこうとい うことだそうですが、時間のかかる作業になることでしょう。

それにしても、小さな台湾の中で、このこと以外にも複雑な背景があることをいまさらながら驚かされます。大陸との関係、いまだに続く海外移民希望者のいること、華僑という私たちには理解できない人間関係などなど・・・

Tuesday, December 21, 2004

[追伸:台北通信] 05-激しい競争を生き抜くためには・・・

昨 日の[台北通信]でFedExとわたりあってくれたホテルフロントのお嬢さんです。フロントは二交代制!早朝から夜九時半までがワンクルー、そこから明け 方までがもうワンクルー、クルーは一日おきに代わります。昼間は女性クルーが、夜は男性クルー。三人一組です。それ以外にフロントの女性を仕切っている女 性一人にフロアを見回っている男性が一人。フロントの脇にインターネットカフェ(ホテルサービスの一環で無料です)が二十四時間開いていることもあり、ロ ビーに隣接するラウンジでは珈琲を無料で提供しています。私は二度ばかり真夜中にお世話になったことがあります。お酒を飲んだあとの一口です。

以前ご紹介したボーイの「お魚くん」いわく、ここの女性はよく替わるんだそうで、その度にやってきては「ニューフェースです」と紹介してくれました。何か 原因があるのでしょうね。私の滞在期間中にも数人が代わりましたし、一人はやめて二週間もした後に戻ってきたりしてます。あるときラウンジで珈琲を口にし ていると、フロアマネジャーが「彼女、今日で仕事終わりです」というので「エー、辞めちゃうのー」と残念そうに話しかけると、眼をウルウルさせて顔を横に 向けてしまいました。しばらくして戻ってきたのが彼女です・・・

フ ロアマネジャー以外はみな、英語名の小名(ニックネーム)がついています。フロントを仕切っている女性はなかなかの美人、一昔前の台湾の美人でしょうか、 落ち着きがあって大人で物静かで(な感じだということです)・・・彼女の小名はリンダ、かなり違うんじゃない、でした。日本語を理解できる数少ない人間で す。日本人の常連客はすぐに彼女を探してはあれこれ聴いているのを眼にしました。

夜中を仕事にしている男性の場合はというと、これがまたよくぞ揃えたというばかりにおほも達系なのです。なかでも髪を短くしカラーしている男がおります。 彼の上ずった声と腰つきと鍵を私に手渡す際の手つきなど思わずその指先を撫でてあげたくなるほどです。毛唐が多く寝泊りしていますから声をかけられないだ ろうか心配したりしてみたりしましたが。私が遅くに戻って鍵を受け取り立ち去ろうとすると「Good Night!」と甘い声が背中越しに聞こえてきました。

さて、写真のお嬢さんに戻りましょう。彼女、一見かわいらしいのですが、仕事バリバリ、対応すばやく、早口で内容いい加減。何しろ客への対応はすばらし い、客の顔と名前と部屋番号を瞬く間に記憶してしまい、私が戻ってくると「お帰りなさい!」といって鍵が目の前に出てきます。他の女性は、こちらからは見 えないカウンターに記されたリストに目をやりながらの対応ですから、彼女には太刀打ちできません。私が珈琲を飲む習慣のあるのを理解すると、「珈琲です ね」といいながら新人に指図します。しかし一方で「サブウェイ(日本にもあるサンドウィッチ屋さん)ってどこにあるの?」ときくと、正反対の方向を教えて くれたりもします。対応はすばやし、されど定かならず。生き抜くためには、出し抜くためにはこんな生き方も必要なのでしょうか。

部屋は常に満室状態のようでした。それでも空きが出ることがあります。若い二人がフロントで部屋代を聞いて諦めたかと思ったら戻ってなけなしの小遣いをは たきチェックインする様。若い女性を脇にベンツで乗り付けるおじさん。長期滞在でようやく見つけた(んだろうな)女子学生と有頂天になってエレベーターに 乗り込む外国の若者などなど。夜出かけることもなかった私が、ラウンジで何をすることもなく珈琲を飲みながらホテルの客や彼らの様子を見て感じたのは人さ まざまでしょうか。

Monday, December 20, 2004

[追伸:台北通信] 04-続・スマートフォンを購入してみると

[台 北通信]11月2日でご紹介したスマートフォン購入のいきさつです。台北に来て、仕事が軌道に乗り、余裕ができて、退屈しのぎに「欲しかったあの Treo600を手にして遊ぶか・・・」が始まりです。日本で購入もできたのですが、突然の呼び出しでそれもなりませんでしたし、海外でカードを使って別 の国から物を送ってもらうというのも乙津かと。これがややっこしさの始まりでした。

時々利用しているモバイル関係のインターネットショップにexpanSysという英国のお店があります。はじめて登録するときには、パスポートのコピーを ファックスで送れ、ファックスの映りが悪いからもう一度などなどかなりうるさいのですが、一度登録されるとあとは面倒なことはありません、銀行の残高が許 す限り購入可能です。価格が総じて他と比べて安い、最大の利用価値があります。Treo600というスマートフォンも、海外の他店や日本のお店より3万か ら4万安い。で、台北のホテルで一人このウェッブを覗き込むわけです・・・

expanSys は世界各国にブランチを持っています。しかし台湾にはありません。では台湾に送ってくれる支店はどこかと探すと、香港から送れることが分かりました。そこ で香港のexpanSysを覗いて注文を出します。私の登録住所は日本ですから、海外の送り先を別に記入しなければなりません。ことは順調に進みました。 あとは二日ほど寝て待てば手元にTreo600が届くはずでした。

expanSysから物を発送した旨のメールが届いてから五日たちました。まだ寝て待たなければならないのでしょうか。expanSysのデリバリーは FedExのみ、そのトラッキングを見てもすでに台湾の税関手続きを終えているとあります。しかし、その次の欄には「届け先不詳」と。おいおいおい、なん なんだこれは!続いてexpanSys本社からメールが入ります。「貴方の記載した届け先は存在しない、荷物は一度香港に戻してしまうぞ」なんて書いてあ ります。返事を書きました。「こちらには二つの届け先がある。一つは事務所で住所は○○で電話は××で、もう一つはホテルで住所は何々電話はこれこ れ・・・」。それでもこのまま私のTreo600が香港に戻されてしまったらどうしよう、あとの手続きがめんどくさい、ぐちゃぐちゃ・・・。

翌朝、心配のあまりホテルのカウンターのお嬢さんに手助けを求めます。「悪いけど台湾FedExに連絡してこれこれのオーダー番号で、トラッキングナン バーはあれこれで、こいつがどうなっているか聞いて?」。お嬢さん、快く「あいよ!」。ことは順調にいっているようでした。明日には届けるとFedExか ら返事をもらったとのことです。しかし物事そう上手くはいかないものです。次は税関からクレームが出たらしい。

FedExの女性「貴方の購入した品物はスマートフォンではないのか?」
私「そうです」
女性「スマートフォンを台湾に輸入するにはそれなりの税金を支払わなければならない。その額は特別物品税約6500元(日本円で約二万円)、それ以外に一般の物品税が2000元(日本円で約七千円)必要になる。よろしいかな?」
私「えっえっそんなに支払うのですか?困ったなー。でも仕方ないなー。はいはいです」
女性「ではパスポートのコピーと何がしかのコピーとお金を用意しときなさい。明日の朝届けさせます」
私「はいはいはいです」

翌日、指定の時間にホテルのロビーで待ちに待ったTreo600の入ったFedExBoxを待ちます。
電話が入りました。

FedExのオンナ「実は厄介な話があるがこの話は英語でするか?それとも中国語か?」
私「はいはいどちらでも・・・」
オンナ「○×△・・・で昨日要求した書類を□△×○してください」
私「すみません、最後の□△×○って何ですか?」
オンナ「今日本語の分かる人間がいないので、戻り次第連絡入れさせます」

待てど暮らせど音沙汰なしです。そのまま仕事に戻ります。

夜、ホテルに戻るとフロントの女性が私に声をかけてきました。
「オオユキさんの注文したものはスマートフォンではありませんよね!」
「あーはいはい」
「それなら税金は払わなくていいので、二千元だけ用意してください。明日届きますから。書類ももう必要ありません」

えらい!彼女は偉い!私がいない間にFedExと交渉してくれたのだ。見るに見かねて助け舟を出してくれたのだ。彼女はこの品物はPDAでありスマートフォンではないと言い張ったに違いない。

翌日ホテルから事務所に電話が入ります。FedExが待ってますと。すぐに戻ると、かっこいい二人の若者が私のFedExBoxを大事そうに両手に乗せて 立っていました。お金を支払いようやくTreo600は私のものになりました。すでに届いているはずの日にちから一週間が過ぎていました。 expanSys本社からも「完了!」とメールが届きます。

Friday, December 17, 2004

[追伸:台北通信] 03-台北の新都市交通

地 上約八メートル上空から台北市街を眺めた写真です。一昔前のSF風景そのものですね。二十世紀初頭、日本の技師たちが礎を築いた条里制の都市計画でできた 幅四十メートルの道路を、ラバータイヤを履いた新交通車両が走ります。地上にいても音は大きくありません。しかし早い。どのくらいでているのでしょうか。 独特の光景が新しい台北を見せてくれていました。子供のころを思い出して、車両の一番後部に座って写真を撮りました・・・

こ の路線は、私が宿泊したホテル付近の中山国小駅から木柵というところまで走っています。できたころは何かと評判が悪かったそうですが、他の路線の建設も進 み、地下鉄との組み合わせでほぼ主要な拠点が結ばれると、利用客は急増したようです。モーターバイクが貴重な足だった時代から、天候にも左右されず、服装 も着飾って移動ができますので女性の身なりも様変わりしていました。

値段ですが、前にもご紹介したプリペードカードを私は利用したためわかりません。赤字覚悟で計画したものだそうなので、バスとそんなに変わらないのではな いでしょうか。私は東京にいたときのように、ちょっとした買い物にもこの線を利用していました。あっ、もちろん無人で動いています。技術はフランスからと 聞いています。この新交通、現地では「捷運」と呼んでいます。

[追伸:台北通信] 02-「鼓馨若響」に救われた二ヶ月

写 りが悪くて分かりにくいかもしれませんが、わたしのiTunesのリストの一部です。台北でのきつい仕事を和ませてくれた一曲を三人の歌手が歌っていま す。昨年、蘇州での厳しい仕事を救ってくれたのも一つの曲、台湾の歌手・張恵妹が歌っていた「聴海」だったのですが、そのアルバムにあった台湾語の一曲、 それが「鼓馨若響」という題名でした。

蘇州から帰国後も、「聴海」ではなく「鼓馨若響」をしばしば繰り返し聴いていました。タンゴのリズムで歌われる雰囲気がなんとも心地よかったからです。今 回も張恵妹が歌う「鼓馨若響」を聴いていたのですが、あるときこの元歌は別にあることを知りました。そしてホテルの近所にある「韓泰美食」という夜食をと りにしばしば訪れていた餐庁(レストラン)で探し当てました・・・

と いうより「鼓馨若響」の元歌を探しているんだけど・・・という問いに店の兄貴が答えてくれたのです。陳昇がその歌手。かれは次に私が店を訪れたときには彼 のCDを用意していました。「この歌は陳昇よりも江恵が一番さ!ただ古い歌だからねー、店では売っていないよ」。江恵は新北投などの歓楽街で、バンドを連 れて酒家などの客の宴席で歌っていた歌手だそうです。向こうで言う「ながし」のことです。聴いてみたくなりました。

江恵の「鼓馨若響」もやはりこの餐庁から手にすることができました。店で流しているバックグラウンド・ミュージックのなかにありました。一度で気に入りま した。甘酸っぱいタンゴのリズムと物悲しい節回し、仕事のことで頭がパンパンになっている外国人の顧問にとって、彼女の声の切なさには酒に酔いかけた味が ありました。陳昇の歌う「鼓馨若響」はどうもコメディアンが会い方とやり取りしながら歌っているような、おふざけな節回しです。それにたいして張恵妹が歌 う「鼓馨若響」は格がある、すばらしいのですが何度も聴くと疲れてしまう。

ということでわたしのiTunesのリストには、この三人の「鼓馨若響」が並ぶことになったのです。そしてホテルでいただいた金門の五十八度の白酒をのどに流しながら聞き入っていました。

Thursday, December 16, 2004

[追伸:台北通信] 01-LuLuのサンドイッチ

長い間中断させていた[東アジアは停看聴]ですが、ここしばらくは今年の十月半ばから十二月半ばまで滞在した台湾の生活をご紹介していきたいと思います。ということで「台北通信」は「勝間通信」からこちらで引き継ぎます。

まず食生活の変化。当初毎日のように通っていた「素食」でしたが、いくら「素食」とはいえ野菜類は油でいためてから調理に入ります。植物油とはいえ、所詮 油に変わりありません。すぐにお腹がもたれるようになりました。勝間の田舎で鰯と豆腐と納豆の生活を長く続けていた身にはこたえました。年なんでしょう ね、十年前まではなんてことはなかったのですから・・・

事 務所に合衆国で長く生活していた人間がいます。愛想がものすごく悪いのです。四角四面は顔だけではありません。言うこともすることも四角四面。この彼、意 外と優しく親切でした。あるとき、事務の女性に「美味しいサンドウィッチ、どこかで売ってない?」と聞くと、彼の名前が挙がりました。恐る恐るたずねてみ ます。彼、なんとわざわざ私を連れてその店にまでついてきて、私が注文しているのを後ろから心配そうに覗いています。「大丈夫、大丈夫、引き取ってくださ い」。

この店がLuLuという名前でした。ほしいものが切れているとその場で作ってくれます。私はツナ・サンド専門でした。飲み物はヨーグルトか「今日湯」・今 日のスープ。どれも美味しくそれ以降つど訪れました。私の風采からか、すぐに外国人と解かった店の女性たちは英語で注文をとります。この付近には外国の企 業が多く、中華の味になじめない、または私のように中華に食傷気味の人たちの救いとなっているようでした。

帰国間もないころには、店の扉を開けるとすぐに「ハーィ!」と声がかかるようになっていました。ツナ・サンドが50元、ヨーグルトは25元、スープは35 元です。日本円に直すと250円から280円、安いですね。物価の感覚は日本の半分程度でしょうか。おかげで無駄遣いもせず、体の調子を崩すこともありま せんでした。

それにしてもこの紙(!)袋、雰囲気ありますね、1950年代の匂いが漂っています。

Tuesday, November 2, 2004

[台北通信] スマートフォンを購入してみると・・・

[農暦] 9月20日 [新暦] 11月2日 [天気] 曇り

台北に来てまでスマートフォンを買うこともないのですが、やはり物欲がふつふつと湧いてきてしまいました。市内には台北の秋葉原という一角があると聞いて いました。そこに出かけたいのですが、時間が取れません。面倒くさいのでウェッブショッピングをしてみます。香港から購入するのが一番簡単で安い、と思っ て手を出したのが面倒の始まりでした。明日届きますよ、と連絡を受けてからもう五日もたっています。税関がああだこうだといってきているのです。手続きの 代理をホテルにお願いして署名します。明日には届くらしいのですがどうなることやら・・・

Monday, November 1, 2004

[台北通信] バルコニーの違法建築?

[農暦] 9月19日 [新暦] 11月1日 [天気] 快晴

このアパートが建てられたときのバルコニーは、きっと写真左側二階が元の姿だったと思われます。いつの間にかパッチワークの立面に姿を変えていました。泥 棒の侵入を防止するための格子を全面に取り付ける、すべてを屋内にしてしまう、強い日差しを避けるために真っ黒いフィルムを張ってしまう、などなど計画時 点では予測できない住み手の工夫は、以外に町の景色を面白くしています。

この建物では、右ウィングの四階がサッシュレスのガラスと観葉植物とで飾られていたり、左ウィングの五階が植物でいっぱいだったりと、楽しい仕上がりに なっています。おそらく違法なのでしょうが、私の空間をどう変えようがかまわないでしょ、というこちらの人独特の考え方がうかがえます。

Sunday, October 31, 2004

[台北通信] ホテルのおさかなくん

[農暦] 9月18日 [新暦] 10月31日 [天気] 曇り

ホテルのボーイ君です。日本のテレビに登場するやけに魚に詳しい若者がいますが、このボーイ君ちょっと彼に似ていると思いませんか?驚くことに声がまた そっくり、口を横に開き高音を発して話をします。長逗留になるといろいろな話を聞くことができるようになるのですが、彼の出身地は大陸・広州なのだそうで す。小さいときミャンマーに移り住み、中国語はそこの中華学校で学び、日本に来て日本語学校に通い、働き、そして台湾に移り住んだのだそうです。日本は、 東京は大好きだと話していました。

Friday, October 29, 2004

[台北通信] それでも素食は重かった

[農暦] 9月16日 [新暦] 10月29日 [天気] 晴

昼食に素食を続けていたのですが、それでもお腹にもたれるような気がしてきました。植物油を使って調理していると聞いてたのですが、勝間での玄米と鰯と豆腐の味噌汁に納豆の食事と比べると、やはりこちらの料理は重いようです。

今日はこぎれいなパン屋を見つけたので、サンドイッチにヨーグルトというごく日本的でサラリーマンのような選択になりました。表通りの広く車が行き来する場所から、街区に入った巷の小さな公園のベンチでのどかに過ごします。ちょっと残念な思いもしたのですが・・・

Thursday, October 28, 2004

[台北通信] 地位の低い喫煙者

[農暦] 9月15日 [新暦] 10月28日 [天気] 晴

ほとんど三年ぶりといっていい台北ですが、大きな様変わりのひとつに喫煙者が驚くほど少なくなったことです。歩きタバコもほとんど見ることはありません。 仕事場は完全に禁煙ですし、公共機関や公共交通、そしてタクシーまでも禁煙です。完膚なきまでといっていいでしょう。さらに巷の薄汚れた食堂で、「タバコ は吸えますか?」と聞いたところ、「客に聞きな!」といわれてしまいました・・・ 

私は禁煙ができていません。やめると体調が崩れそうです。こちらの事務所はもちろん禁煙、タバコの吸いようがありません。そこで建物の外に出た脇にある空 調室外機(背の丈ほどの位置にあります)横に水を入れた紙コップを置いて一日に何度か利用しています。誰も文句は言いませんが、困ったものです。

Tuesday, October 26, 2004

[台北通信] 台北のSUICA

[農暦] 9月13日 [新暦] 10月26日 [天気] 曇り

台風は北に去りましたが、やはり各地に大きな被害を与えたようです。特に雨によるものが多く、テレビ記者が取材中に溢れた水で一命を落としています。病院 の緊急処理を施している囲いにまでカメラが入っていました。近親者の号泣をカメラが拾っているところをながすなどちょっと日本と違うな、と感じました。

話は変わってこちらの都市内交通。現在、市内にはバスと地下鉄と高架の路面を走る電車・MRTが用意されています。地下鉄もMRTも最近整ったばかりです ので、施設は悪くありません。市内バスにも専用通路がしっかり確保されてきましたので、渋滞に巻き込まれることも少なくなってきたようです。それにどれを 選択しても安い。これら交通機関に共通のカードを購入しました。EasyCardと記されています。日本でいうSUICAにあたります。500元、日本円 で1600円ほどです。

Monday, October 25, 2004

[台北通信] 台風下のホテルのロビー

[農暦] 9月12日 [新暦] 10月25日 [天気] 暴雨・暴風

台湾の人たちが期待していた台風の足取りは、残念ながら日本に向かう道を失ってしまいました。そのまま直撃しそうです。

朝、とりあえず徒歩三分ほどにある事務所にずぶ濡れになりながらも向かいます。明かりもなく人気もなく、むなしくホテルに戻りました。時をたがわず事務所の女性から電話が入ります。今日はお休みです、と。おいおい、もっと早く知らせてくれよ・・・

[午後2時追記] 台北が1時前に台風の目に入ったようです。風がありません。
着 替えをしてロビーでコーヒーを口にします。あたりには、いつになく大勢の人たちがうろうろしています。暴風と大雨で出るに出られず、みな外の風景を眺める のみです。街路樹がみな同じ方向に踊っています。雨は暴風の向かう方向を目で見えるように動き回っています。吹き飛ばされた枝が大通りを走り回っていま す。高架のMRTも姿を見ることができません。

英字新聞に目をやる白人、PCで遊ぶヒューレット・パッカードの三人組、台湾人と結婚して今日の午後里帰りを考えている日本人女性、彼女は本を前に口に出 して中国語を勉強しています。西洋人と台湾女性夫妻は手持ち無沙汰そうです。わたしは[台湾通信]を書いています。小さいホテルですからロビーはこの組み 合わせでいっぱいです。誰も文句を口にする人間はいません。なす術はないのですから。

Sunday, October 24, 2004

失われた木造住宅 (台湾・森坂)

森 坂は日本占領時代、木材を切り出し日本に送り出したところです。台湾の東海岸、花蓮から南に鉄路で30分ほどのところにあります。敗戦後も引き続き台湾檜 を中央山脈から大量の木材が搬出してきました。一九八十年代はじめに最盛期を迎えたところで山火事が起こり、その後は林業の衰退もあり、急速に華やかさを 失ったところでもあります。

ここには日本時代に建てられた総檜作りの官舎が立ち並んでいます。八十年代後半、始めてこの村を目にしたときには本当の感動したものです。なつかしく、ま るで少年時代に読んだキンダーブック(若い人は知らないでしょうね。挿絵に田舎の風景や遊びなどが描かれていました。空襲の焼け跡で遊んだ都会っ子には憧 れの的でした。)そのままの情景がここにはありました。

その森坂も火災にあい、戦後立てられた住宅を数多く消失します。写真はそれから三年たった情景です。しかし、住民やこの村を愛する人たちの努力によって、失いながらも「再生森坂」を標語に、ゆっくりですが確実に新しい森坂を創ろうとしていました。

[台北通信] 田舎の農家の小さな生態系

[農暦] 9月11日 [新暦] 10月24日 [天気] 強風

週末、こちらの大先輩がもっている東海岸・花蓮の別荘に行ってきました。空気がきれいで、山が目の前に迫まり、あたりは田園風景です。すぐ近くに農家があ り、その庭先の小さな生態系を目にしました。人工の池で鯉を飼い、その周りに藤棚を作り、ヘチマで被って強い日差しから鯉を守り、アヒルがヘチマの葉っぱ をつばみ糞を池に落とします。それを鯉が食べるというしごく簡単な循環系をつくっていました。小さな生態系というものを、勝間でもやってみるつもりでいま す。

Friday, October 22, 2004

[台北通信] 台北の路地裏猫

[農暦] 9月9日 [新暦] 10月22日 [天気] 晴

勝間アトリエの猫たちと別れて五日が過ぎています。溺愛していたこともあって、台風がきたからと心配し、ちゃんと面倒を見てくれているかを心配し、まあ困ったことです。そんな折に首輪のない猫を見つけました。小柄ながら落ち着いて路地裏を行き来しています。

台湾では一昔前までペットを飼う習慣はあまりなかったようです。経済的に余裕ができたのか、昼に着飾った犬の散歩に出ているご婦人などを目にするようになりました。猫の姿は珍しく、飼っていても家猫でしょうから、この猫は特別かもしれません。

Thursday, October 21, 2004

[台北通信] 素食で昼食

[農暦] 9月8日 [新暦] 10月21日 [天気] 晴れ

台北ではかなり健康志向が強いようです。こちらの建築師と昼食に出かけましたが、たどり着いたのは素食のお店。素食は精進料理のことです。五十席はありそ うな店内は満席、やはり女性客が多い。入り口に用意されたバイキング形式の惣菜をペーパーディッシュにのせて清算にむかいます。・・・ 



そこでお皿を秤に載せます。重量で値段が決まります。ご飯がほしい旨伝えると十元加算されます。五穀米を選びました。ほかにお粥と白いご飯も用意されていま す。スープは無料。ただし、料理を残すとペナルティーをとられ、五十元払わなければなりません。無駄は許されません。昼食一式で今日は六十元でした。日本 円で約二百円。この素食屋さんには魚もありません。ほぼ完全な精進料理です。きっと明日も出向くと思います。

Wednesday, October 20, 2004

[台北通信] 勝手気ままなデスク

[農暦] 9月7日 [新暦] 10月20日 [天気] 小雨

私に用意された台北のデスクです。ゆったりとしたブースに広大な作業スペース。もちろんLANケーブルもきていますのでインターネットに高速で接続できま す。ここで勝手気ままにアイデアスケッチを続けています。とはいえ、日本と同様法規に縛られる作業に行きつ戻りつですが・・・

勝間通信の更新はホテルの一室で行っています。さすがPC先進国、ほとんどのホテルにLANは引き込まれています。ホテルの近くにHP(ヒューレットパッ カード)の台湾本社があり、そこのスタッフも寝泊りしています。昨日はロビーに中年の米国人三人が、彼らの製品のタブレットPCを片手に(恰幅のいい彼ら にはまさに片手に、という感がありました)タブレットPCでなにやらアイデアを練っていました。傍で見ていると、ちょっと滑稽な光景でした。

Tuesday, October 19, 2004

車の出口は虎の口 (台湾・台北)

台 北の国際空港から車で市内のホテルへ移動しました。高速道路の下を利用した駐車場、その出口にある柱に「馬道如虎口、行人請小心」と書かれていました。 「車道の出口は虎の口、歩行者は気をつけてください」。虎の口という表現がよかったので記録します。 [字が小さくて読みにくいですね。写真をクリックしてください、大きくなります]

[台北通信] 勝間通信は台北通信に

[農暦] 9月6日 [新暦] 10月19日 [天気] 小雨

先週の日曜日から台北に来ています。突然仕事で呼び出されました。勝間の冬の手入れもままならない状態で出かけてしまいました。しばらくは台北通信をお届けします。千葉と台北では、緯度も経度も異なりますので、月齢も潮汐も変わってしまいます。網路(中国語でインターネットの意味)から探せばいいのですが、まだてつかづです。表示はお休みにします。

Thursday, October 14, 2004

老飯店の朝食 (台湾・台北)

国外に出たときに何を食べるのか、一番大きな問題です。食は人生で一番重要度の高い行為ですから。「衣・食・住」は日本人の考え方、彼ら「は食・衣・住」なのですから。台湾語の挨拶は「食事は終えましたか?」で始まります。さすがに最近の若者は使わないとのこと。

で、この朝食、餐庁(レストラン)に座って「中国菜」と注文すると出てくる朝食セット。お粥とそこに加える具。具は日によって変わります。揚げた魚・煮野菜・目玉焼き・鳥のから揚げ、がこの日のメニューでした。

Tuesday, October 12, 2004

相互扶助の「公壁」 (台湾・鹿港)

台 湾中部の古都・鹿港には、日干し煉瓦を積み重ねてつくられた長屋の商店街が今でもたくさん残されています。道に面した部分には騎楼と呼ばれるアーケード、 幅四米強奥行きほぼ四十五米という細長い敷地は、お店に始まり、居室、中庭と水屋、居室、水屋そして野菜などがつくれる庭という構成をしています。

続き長屋の一軒の家を建て直すときはどうするのでしょうか。お隣との境には幅一尺もある厚い壁があります。この壁は両隣の家も使っている構造壁です。取り 壊すときにはこの壁を残し、建て直すにはこの壁を使います。あちらではこの壁を「公壁」と呼んでいます。Public Wall です。リニューアルの際の写真ですが、なかなかきれいな光景を目にすることができました。

Monday, October 11, 2004

洪会長インタビュー 「台湾の日式住宅」 (台湾)

東アジアの国々を訪れていた10年前の台湾では、まだまだ多くの日本時代の住宅を台湾のいたるところで見ることが出来ました。恐らく、東アジアの国々の中で、これほど多くの木造日本式住宅が残されている国は他にありませんでした。
何故今でも多くの日本式住宅が台湾には残っているのか、若い頃に建設工事にかかわって日本式住宅の修繕にも携わってきた一人の建設会社の会長さんに、色々お話を聞く機会が出来ました。

この文章は、雑誌 SOLAR CAT no.36 「アジア涼感生活考」 取材の際にお話を伺ったのもの全文を掲載しています。 [写真は会長が私のカメラ付PCを覗き込んでいる様子] 

洪会長インタビュー 「台湾の日式住宅」

出席者:
洪 国隆 双隆建設会社理事長(●)
李 政憲 双隆建設会社社長
大行 征 (○)
日 時:1999年6月15日午後2時から
場 所:台北市双隆営造公司10階会議室
通 訳:李 政憲 氏
記 録:大行 征

○昨日、花蓮の董事長さんのお兄さんの御宅を御案内いただき有り難うございました。お住まいになっている日式住宅がきれいに使われていることに驚かされました。あれ程保存の程度がいい日式住宅は非常に稀少価値のあるものだと思います。

● あなた方が日式住宅に興味をもたれていることは知っていました。花蓮で御紹介したのは、特別に使われている一軒の日式住宅です。何故かというとここに住ん でいる二人の夫婦は、日本の教育を受けています。それに日本への留学もしています。そのために日式住宅の使い方、面倒の仕方はとてもいいものです。日式住 宅の見方も心得ています。

○董事長さんは若い頃に日式住宅の修理改装に携わったと聞いております。その時の経験からお話をしていただきたいと思います。よろしくお願いいたします。
●どういたしまして

台湾が光復(日本の敗戦、台湾での終戦)の後に、そのような機会がありました。私が知る範囲でお答えいたします。

○まず一つ目の質問ですが、もし台湾に日式住宅が作られたわけを御存じでしたらお教えいただけますでしょうか

● 私の知っている限りでは、日本が台湾を50年間に渡って統治したことにより、かなりの部分に台湾の文化と生活様式に影響しました。建築についていえば、光 復前までにかなりの量の日式住宅が作られました。台湾に住んだ日本の人たちは、ここでも日本と同じ住まいと住まい方を望んでいた様です。

台湾でも日本式の教育がなされ、日本式の文化・生活様式が浸透してきました。そんなこともあって、多くの台湾人が日本の建築を好きになりました。その理由の一つとして特に重要なことは、台湾人の公務員にも日式住宅が提供されたことでしょう。

私が理解しているのはこんなところです。

○では二番目ですが、日式住宅が多く作られるようになって、日式住宅も台湾の環境にあうように替わってきたでしょうか?材料、工法、使い方等も含めて日式住宅自体はかわってきたでしょうか?

● 台湾人が日式住宅に住んできた時期は二段階に分けることができます。一つは光復以前、台湾は日本に統治されていたわけですから、文化・生活様式は日本人と 同じ様でした。特に、日式住宅で生活していた人たちにとっては、日本人と全く同じでした。例として、昨日御覧になった花蓮の日式住宅と住み手の生活がその 良い例でしょう。

● もう一つは、教育を受けられなかった人、もしくは農民等。彼等は今までの習慣として、福建地方の民家、もともとの台湾の生活様式を築いていた人たち。彼等 と光復以降台湾に移り住んできたたくさんの中国人。彼等は住民を失った日式住宅の新しい住民になりました。彼等は台湾の状況に疎かったり、なおかつ多くの 移民が貧しくもありました。日本教育を受けていなかった彼等は、日本式の生活様式もよく理解できなかったこともあり、それが原因でたくさんの建物が壊され てしまいました。

● ここに一冊の本があります。この本は53年前にニュージーランドの技術者が書いた物です。この本の内容は二二八事件のことについて見たこと書いています が、そのなかで中国人と台湾建築物の破壊について触れられています。例えば窓など動かすことのできるもの、それらは持ち運び出されてしまいました。そんな こともあって、世の中が安定してきた時に、再び建物を使おうと思って残された骨組みの住宅を修理をしたわけですが、修理の仕方が間違っていたのでしょう、 もともとの日式住宅とは建物も使い方も違ってしまいました。

●この本の中に一部分を御紹介します。

●「・・・台湾に移り住んだ中国人のほとんどが国民党に編入されていて、日本に帰る時わずか100キログラムの荷物に制限されていた。主人の持ち物とわずかなお金とが許された。残りの財産は全て台湾に残された。・・・・・

「・・・日本人が日本に戻った時、もともと日本人が住んでいた家は空家のままで残されていた。空家の移動できる物は全てどこかに持ち運び出されていた。桶、水洗便器、水道メーター、窓やドアなどの金物、その他売り捌くことのできる物は全て、例えば床板、天井版・・・・・」

終戦直後の状況をこの本は描いていますので、詳しいことをお知りになりたければ読んでみて下さい。

○ 二番目の質問ですが、彼等が住んでいた日式住宅の住まい方についてお聞きします。特に、台湾という日本とくらべても高温多湿という気候の中に、日式住宅は 置かれたわけですが、はたしてそんな状況の中で日式住宅は耐えることができたのでしょうか。董事長さんの修理修繕の経験の中からお話いただけますか?

●基本的に、残された日式住宅は新政府の公務員、教員などの宿舎として使われました。

●台湾は日本とくらべて気温も高く、雨も多いわけです。しかし、台湾の高温多湿の中で、日式の住宅は台湾の気候風土に相応しい、木造で高床式て風通しがいい作り方ですから、亜熱帯の台湾にも相応しかったと思います。

日式住宅は台湾や東南アジア、それに中国南部の原住民の家と似ています。高床、大きな開口、木造、通風の良さは日式住宅と一致しています。

○では日式住宅の修繕の時に最も修理が必要だったところはどこでしたか?

●当然のように生活の仕方が違うわけです。一番改善したところは便所、厨房、浴室など水場です。なぜなら生活習慣が違うからです。

○ということは、改装によって中国人の生活様式にあった形に直したのでしょうか

●基本的には使い方が間違っていたのだと思います。

例えていえば、ほとんどの畳は板の間にかえられました。なおかつ木でできた部分、壁とか柱にはペンキが塗られました。もともとの日本住宅の使い方のフィロソフィーに反した改装がなされました。障子や襖は、通気性のある材料からない物へ、板戸とかえられています。

というわけで二つの問題がおこってきました。日式住宅を使用するには日本の本来の注意深い使い方が失われ、その結果、人の生活も不健康に、建物そのものも また不健康になってしまいました。使い方を間違ったことによって失われたことは本当に勿体無いことです。なぜそうしたのか、その理由は治安問題にあったの ではないかと思います。開放性は中国社会では防犯の役に立ちません。

●もう一つは、日式の住宅のほとんどが宿舎として使われていたわけですが、住み手が自ら建物の修理修繕をすることはなかったことです。その結果、建物の痛みが進んでしまいました。

○では畳、障子、襖がなくなったということは、台湾の気候にあわなかったということですか?台湾の生活に不健康だったということですか?

●畳、障子、襖は台湾では高価なのですよ。日式住宅を維持管理するにはお金がかかるんですよ、伝統式中国民家に比べて。

○わかりました。話をかえて、台湾の日式住宅はもともと誰が作ったのでしょうか。日本から大工を連れてきた作ったのか、もともと台湾に日式住宅の職人がいたのか

●その質問はなかなか興味深い物があります。

台湾にはとても優れた職人がいました。ほとんどの日式住宅はこれらの職人によって建てられた物でしょう。彼等は日本人によって教育され、よく訓練されてい ました。いまでも何人かの方を存じ上げておりますが、お年は80歳を過ぎているはずです。当時台湾の建設会社は多くあり、彼等優れた技能工もたくさんおり ました。

御存じですか?終戦直後の台湾の建設技術の水準は、アジアの中で最も高かったと思われます。品質官吏、技術、管理面でも日本本土なみの水準だったと思います。

○それらの職人達は日本人監督技術者によって教育され、技術が受け継がれてきたと思ってよろしいでしょうか。

●そういってもかまわないと思います。

なおかつ監督の多くは台湾の工業学校など優れた専門学校で学び、卒業した人たちが行っていました

○ということは、職人達は日式住宅の良いところ悪いところを十分理解できていたわけですね。

●そうです。非常に理解できていました。彼等の仕事に接する態度は、日本の職人と同じといっていいでしょう。私が初めて京都や奈良を訪れた時に見た建物でそれを感じました。

ひょっとしたら日本の技術より優れた能力を持った人もいたと思います。その理由は台湾の木材資源、特に檜が有名ですが、それらの資源を活用する必要があったからだと思います。
○私が20年前、初めて台湾にきた時、台北市内でたくさんの日式住宅を見ました。ところがその多くが人が住んでいなかったり、崩れそうになっていたのを見ました。

もし、それだけの技術を持った人たちがいたのに、なぜ朽ち果てようとしていたのでしょうか

●この問題の答えはこう言えると思います。

●第一の問題は、技能工がいても終戦後の台湾の生活は非常に貧しく、建物を修理する余裕はありませんでした。

第二の問題は、公務員等の宿舎が多かったこと、私人と違って国が修繕費などを出す余裕はやはりなかったのです。

なおかつ、貧困の時代を終えて経済が急速に成長した時、土地利用が問題となりました。日式住宅はとても住みやすかったのですが、土地を有効利用しているとはみなされませんでした。

○台湾の東部を訪れた時にも多くの日式住宅を見てきましたが、同じことが言えるでしょうか。

●そう言えます。

○ではもう一度花蓮の日式住宅についてお伺いします。

○花蓮の日式住宅の意義はなんでしょうか。

●やはり日本の教育、日本の文化と生活様式を保ってきている。また別の家に住む理由もないのでそのまま残している。

あの土地は花蓮の市内にあって、土地はほぼ300坪でしょう。建物に200坪使っていますが、今の台湾の都市計画の基準から算定すれば、だいたい2000坪の建物がたてられるはずです。そんななかで昔からの生活をしていることは経済的な負担も大きいはずです。

○ということは日式住宅というのは維持管理に手間ひまかかる、といういことはお金がかかる、合理的に土地利用を活用するには向いていないといえますね

●土地利用が十分でないことはその通りですが、建物の維持管理が大変だということとはまた別の問題です。実際、私の考えでは、この建物を維持管理することも生活の一部だと思っていることです。

○それではもう一つ伺いますが、伝統的中国の住居は日式住宅にくらべて維持管理が易しいということでしょうか。

● 私の見解では、日式住宅と中国伝統式住宅とを比較するのは難しいと思います。中国の伝統的建物、漢民族の建物でも金持ちが住んでいるような建物は維持費や 管理に要する手間は、日本の住宅よりもはるかに大変でしょう。しかし、一般の人間の住まいは、それほど手間ひまのかかることはないと思います。

○少しいじわるな質問をさせていただきます

先ほど来のお話で、日式住宅が台湾の気候風土に向いているといわれておりますが、それでもなおかつ台湾の方々が中国伝統形式の住宅に住まわれているのはなぜでしょうか。

●中国伝統形式の住宅というのは台湾に少ないのです。せいぜい宗教建築の廟とか田舎に見受けられる農家が伝統形式の建物にいえるかも知れません。

農村にそれらの建物が残ったのには二つの理由があります。

一つは田舎の土地が安い、それゆえに贅沢な建物を作ることができる。

もう一つは、農民は他の文化への影響が多くありません。そのために伝統形式の建物を使っている。だから今でも残され、使われているのです。私の目から見ると、中国伝統形式の住宅は、台湾に残された日式住宅よりとても少ないかも知れない。
○昨日お会いした時、面白いお話をしていただきました。台湾という国は、いろいろな国外の文化の影響を受けてきている。そういうことは建築の面や生活の面で台湾の人の考え方に大きく影響しているでしょうか。

●そのとおりです。台湾は他の国の文化、政治に大きく影響されてきました。生活習慣もそうです。ですから当然建築の面にもあらわれています。いろいろな建築形式への対応性もあります。

●その結果建築においても生活文化の面においても台湾独自のものがありません。そのことがいいことだったのか悪いことだったのかは分りません。

○それではこれからの台湾の建築の方向を探すことは難しいでしょうか。

●とても難しい、この提案はとても大きな問題だと思います。これは教育、政治、いろいろな問題に関わっています。短い時間でお話できることではありません。

○それでは最後の質問をさせていただきます。

私は花蓮にある森坂という村を時々訪れます。私にとって、森坂は小さい頃の夏の風景を思い出させてくれる場所です。日本の昔の建物があって、夏草が生い 茂っていて、蝉の声が聞こえて、簾があって西瓜が御盆に乗ってでてくれた生活を思い出させてくれる場所です。董事長にとって、そのような思い出の場所はあ るでしょうか、またあった場合にはそれはどのような光景だったでしょうか。

●思い出させる場所はたくさんありますが、今ではほとんど見当たりません。特に小さい時には日式の官舎に住んでいました。それは高度3000メートル付近の場所にありました。そんな高いところにも建物が立っていたことに今でも驚かされます。

● 森坂のほかにも日式住宅が建てられた場所が花蓮の豊田という移民村があります。それ以外にも、一単位300坪をもった移民村が計画されました。その背景に は、日本が台湾の東部に移民する計画があって、製糖会社、アルミ会社、水力発電所、鉄道、台湾の一番美味しい米などが花蓮周辺につくられ、多くの業務に日 本人が携わったわけで、かなり移民計画がすすめられたとえばトヨタなどがその例です。特にお米は美味しかったようで、天皇にも奉納されたそうです。

○ただ、森坂は時間を経るごとにその姿を失いつつあります。私にとっては故郷を失うような気持ちでいます。残念でなりません。

○今日はお忙しいところを時間を裂いていただき有り難うございました。

●どういたしまして、何か不十分なところはありませんでしたか。

○いえ満足しております。

Friday, October 8, 2004

[東アジアの人たち] 一九八七年のE君 (中国・北京)

一 九八七年夏の始まり、私は北京に呼び出されました。日中合同で進められていた一つの計画に参画してほしいということのようです。日本の商事会社とハウス メーカー、それにあちら側のある省庁が合弁で始めた外国人用アパートメント事業だといいます。在日台湾人の設計者がプロジェクト・マネジャーを務めていま した。彼の卒業設計をお手伝いしたこともある古くからの知り合いです・・・

会っ てお話を聞いてみると、言葉の問題、仕事の進め方、それにスタッフが若すぎて技術的な解決ができそうにないといいます。それではと北京に出かけました。仕 事は時間に追われている状態で、朝から晩まで会議と打ち合わせが続きます。あちら側も日本側のスタッフもかなりの努力をしたと思います。

その中に一人の日本人の若者がいました。デザインを任されていた彼はまだ学生、私の後輩でした。名前はE君、流暢な米語に黒人の訛を上手く織り交ぜて話を していました。デザインセンスはなかなかのもの、日本人離れの感覚を持ち合わせています。言葉すくなに仕事を進めます。話を聞いてみると、学校が休みの間 を使っては外国の建築事務所で働いてきたとのことです。

彼が学生であることは中国側に伏せられていました。契約上か何かの理由によるのでしょう。相手側はうすうす分かっていたのではないかと思いますが、私が来 たことで安心したのか、仕事はそれなりに進み始めました。しかし、朝から晩までの作業で、ホテルと仕事場の間を車で移動する以外、外に出られるのは週末の み、それも日曜日だけでした。

そんな日は私とE君の二人、つるんで街中に出かけます。北京の街中はまだ落ち着きがありました。開放政策が始まったばかりですから、彼らの服装もお店も町並みも質素そのものです。街中も退屈です。
紫禁城に向かって歩きながら彼に提案します。

「おい、この連中に自由世界の風景を見せてやろうぜ」
「なんですか・・・」
「男どうして抱き合ってみせるっていうのはどうかな」
「やめてください!僕はストレートです!」
「形だけ、形だけ」
「いやですよ!」

残念ながら暗い人民服を身に纏った連中に、自由世界の風景は見せられませんでした。

日曜日とあってか、天安門広場前の大通りに車の影は余りありません。ただただ自転車が左右しています。大通りの左前方に紫禁城が見えてきました。私たち二 人は大通りを横切って向こう側にたどり着きます。突然、道路に面した建物の塀のわきから、銃剣をもった二人の兵士が脱兎のごとく私たちに向かってきます。

私たち二人は凍りつき、その場に立ち竦みます。二人の兵士は一言も口にせず私たちに銃剣を向けて構えました。私、とっさに日本語でE君に驚いたそぶりで話 しかけます。E君黙って私を見ます。兵士、沈黙したまま依然銃剣を向けています。兵士、薄汚い身なりの二人は北京の規則を知らない外国人と悟ったのか、よ うやく銃口を下げました。私たち二人、適当な日本語を口にしながら、その場をゆっくりと離れました。

中南海、もちろんそこは権力の中枢、政治の中枢、毛沢東・劉少奇・周恩来・朱徳らも住んだことのある高級幹部の執務兼居住地、その門の前に向かって道路を渡ってしまったのです。くわばらくわばら。

しばらくして私はこの計画から離れます。E君は引き続きここに滞在して図面を完成させます。
彼と再会したのはそれから数年後のこと。大学の卒業設計の展示会に来てくれと案内をもらい、上野の展示場にでかけました。計画のコンセプトは、北京の夜に酒を飲みながら話し合った内容が組み込まれていました。

その後E君と会ったことはありません。ロンドンのAAスクールで先生をしていると人から聞きました。

Thursday, October 7, 2004

老飯店からの眺め (台湾・台北)

も う二十年以上も利用している台北のホテルがあります。中山北路という、目抜き通りを一本入った裏通り沿いにある古びたホテル・緑峰大飯店です。台湾人の一 家が家族経営しています。ここで働いている人たちとももう顔見知りですから、彼らの成長も、結婚も、離婚も、離職もみてきました。当然私の生活も彼らは見 ていました。丁寧で美しい日本語を話されるホテルのママからは、諭されたり叱られたり元気付けられたりしてきました。

私が泊まる部屋はほぼ決まっていました。込み合った街中のホテルです、隣の建物とは隙間もありません。ほとんどの部屋は窓を開けると隣の建物の壁が見えて います。通りに面したツインベットがおいてある部屋以外で、外が見えるのはただ一列です。そこさえも隣接する建物のクーリングタワーの音が入り込んできま す。それでも和めたのは、ホテルの人たちの魅力にあったと思います。

Wednesday, October 6, 2004

竹住宅の造形 (台湾・南投懸)

台 湾中部の小都市斗六から車で半時ほど山間に向かって走ります。竹でできた住宅が点在する集落、愛郷村にたどり着きます。なかには台湾大震災で倒壊寸前の、 住み手に見放された住居もあります。被害を免れた他の建物の多くは混構造、純粋に竹だけで作られたものではありません。写真の住宅は木の柱と竹の補助材を 組み合わせたものです。石を土台に、木の柱に竹を差し込んで止めた部分を写したものです。材料の組み合わせがとてもきれいだったのでシャッターを押しまし た。

Tuesday, October 5, 2004

「ベトナムは東アジアの匂い」ーサイゴンの中国人 十年後記


十数年前までは中国語をパソコンで扱うことなど、一般の人間にはほとんど考えられなかった。台湾のIBMを訪れた後、日本IBMに中国語を扱いたいのだけ れどと電話を入れたが、当時のIBMは個人ユーザーにはけんもほろろ、相手になどしてもらえなかった。この時からしばらく、決してIBMユーザーにはなる まいと思った。結果、IBMは個人ユーザーの必要性への決断を迫られることになるのだが。

それからしばらくして、友人がモンゴルの留学生を事務所に連れてきた。すでにマッキントッシュではOSレベルで中国語が簡単に扱えるようになっていた。そ んなことで、モンゴル語がパソコンで使えないだろうかということを知りたがった。ちょうどモンゴルはロシアから自立を図っていたとき、それまでの公用語の ロシア語からモンゴル語がパソコンで使える必要があった。

パソコンで外国語を扱う「お助け寺」でならしていたマキ・エンタープライズの野原さんに電話を入れてみる。「もちろん可能ですよ、ですがソフト開発に○○万円はかかります」で、話は終わってしまった。当時のモンゴルではとてつもない金額だった。

野原さんの話の中で興味深いことがあった。世界中には五千から七千という言語が存在し使われているという。今後、パソコンに移植できない言語は間違いなく 淘汰されるだろう・・・。言語はそれを使う人たちの文化を形成する源である。もし、それらの言語が失われるならば、それらの文化も思考構造も精神構造も失 われることになるのだから。

台湾では、戦後蒋介石とともに台湾に移ってきた外省人と呼ばれる人々が入ってくるまで、台湾語が使われていた。 もちろん今でも多くの人たちが使っているが、都市の若者たちは話すことができないという。できても味わいのある語り口にはほど遠いという。

掲載されたベトナム人女性の写真は、どの絵を載せるか写真家の北田君と話し合った際、僕が強く希望した一枚である。建築雑誌に女性の写真を全面に出すの を、編集者の高橋君はきっと嫌ったにちがいない。しかし、女性の豊かな表情と、ベトナム人というよりは中国人にちかい顔つきで、連載の趣旨にかなうものと して大きく載せることにした。

場所はサイゴンから南、カントンというメコン川南の街にわたるフェリーの埠頭で彼女に出会った。埠頭では、メコンを行き来する客を相手に物売りがあふれて いた。マイクロバスで南に向かっていた我々は、バスを降りてフェリーが出発するまで辺りを歩き回った。埠頭は人と自転車とバイクと自動車、それにバスで ごった返していた。子供たちが客にコインを河に投げ込むようせがんでいる。おもしろ半分に投げ込むと、子供たちは河に飛び込んではそのコインをすくい上げ る。客にその成果を見せびらかせ、コインはその子たちのものになる。

フェリーの出発時間が来て、我々はバスに乗り込む。その瞬間、多くの物売りが閉まる扉に篭を押し込み最後の売り込みを計ってきた。一人の物売りの、扉から 我々に向けた表情があまりに印象的だったので、僕は写真家にシャッターをせがんだ。バスは動き始めようとしていたし、扉を閉めないと物売りは立ち去る気配 をみせなかったので、押されたシャッターはわずかに二回程度だった記憶がある。日本に戻り、できあがったこの時の写真を僕はかなり気に入った。

Monday, October 4, 2004

「斗六」という鉄道駅 (台湾・南投懸)

台 湾の台中という中都市から普通電車でおおよそ半時間南に下ります。そこに斗六(tou2 liu4)・トロクという駅があります。斗六は小都市、大学のあるのんびりとしたところです。竹で作られた住宅のある山間に行く中継場所にあたります。文 筆家でもある建築家の友人と訪れたこの駅で、彼と私は斗六と書かれた駅の名前を気に入りました・・・ 
我 々は台湾の建築職人に会う旅をしていました。鹿港という古い町で廟をつくる棟梁を訪れます。戦前、日本の大林組から学んだ技術と、正しい日本語を誇りにし ていたようです。会って話をしようとすると、お前が話す言葉は日本語ではないと叱ります。かつては木造の廟を造っていましたが、今はコンクリート造の時 代、木造の形体を模したものに変わってしまいました。

台湾東海岸にある、日本時代の官舎を改修する計画を立てているのですが、とお話しすると、うれしそうな顔で「やるなら早くしてくれ、あんまり時間がないか らな」というご返事でした。もうお年です。木造の建物をもう一度やりたい、と言っていただきましたが、残念ながらこの計画は頓挫します。棟梁、今どうされ ているでしょうか。

続いて向かったのが竹構造の住宅の棟梁。中部山岳地帯、台湾大地震の震源地に近かった鹿谷に住まわれています。この鹿谷に向かうにはバスか車。我々が選んだのが斗六という駅からタクシーを拾うというものでした。(この棟梁との出会いとお話については [こちら] をご覧ください。)

竹住宅の棟梁は再訪した私を覚えていませんでした。しかし話し始めると記憶が蘇ってきたようでした。別れ際に、またお会いしましょうね、というと脇で息子 さんが、ボケが始まっているから・・・といってました。今度お会いしてももう、私の記憶が蘇ることはないかもしれません。

夕方、台北に向かうため斗六駅の改札を通り抜けます。列車の来る間、月台(プラットホーム)で目の前にしたのがこの写真です。「斗六」という発音の響と漢 字が醸し出す雰囲気に、私たちは気に入りました。、私は建築家でもある文筆家に、是非斗六という名を持った登場人物の小説を提案したのですが、はたして書 いてくれるでしょうか。まだ彼の本に斗六は登場していません。

Friday, October 1, 2004

緑茶?それとも烏龍茶? (中国・蘇州)

昨 年蘇州に何度か出かけました。食事の前後や会議の席で出されるお茶は烏龍茶ではありません。特別に注文しない限り、緑茶が出てきます。「サントリーがだし た中国緑茶はいいですねー。日本の方は烏龍茶が中国で一般的なお茶だと思っているんですよ。緑茶に目をつけたところがサントリーは偉い!」、あちらの投資 家の方がいたく感激していました。そうなんです、中国では烏龍茶は一地方のお茶なんです・・・ [写真をクリックすると拡大できます] 
今勝間アトリエにある中国茶は二種類、四銘柄の茶葉。烏龍茶と緑茶です。写真左の小箱は友人のピアニストが中国演奏に出かけた際購入したものをいただきました。自生の烏龍茶として有名な中国武夷山のお茶、もったいなくてまだ開けることができません。

次が台湾の緑茶、非常に珍しい。台湾では鉄観音という茶葉が一般に飲まれていましたが、最近では烏龍茶に押されているようです。右から二番目は台湾のブレ ンド烏龍茶、口当たりがいいですね。一番右側は凍頂烏龍茶、最も普及している烏龍茶かもしれません。どのお茶もピンキリあり、ピンは目の玉が飛び出すよう な値段がつくそうです。

中国の街中ではあまり見かけませんが、台湾には全国津々浦々、お茶屋さんがあります。試飲もでき、店の主人が客と雑談しながら時間をつぶす風景をよく見かけます。暑い夏には、そんな時間がとてもよかった思い出があります。お茶は一つの文化ですね。

Thursday, September 30, 2004

両岸の新幹線 (台湾・中国)

台 湾と中国が超高速鉄道の導入と建設を進めています。台湾では、北の台北から南の高雄まで、日本の新幹線を走らせます。来年開業予定。一方の中国ではすった もんだの様子です。新幹線は採用されないというのが巷のうわさです。移動手段は、高速になればなるほど地理的なかかわりから切り離され、旅を味わうには余 計なものに見えてしまいます。[写真は台湾東海岸を走る単線の鉄道駅・萬榮]

Wednesday, September 29, 2004

一枚の写真・台南の八人

ア トリエを代々木から勝間へ転居の際にわからなくなった古い写真、納屋に山積みになったダンボールから探し出しました。そのなかから東アジアの旅のきっかけ となった一枚の写真が見つかりました。日本人七人と台湾の建築家一人が写っています。撮影は私。一九八五年五月、台北から車をチャーターし、オーバーヒー トを繰り返してようやくたどり着いた台南のお寺さんの塀の前での記念写真です・・・

台湾での仕事が終わり日本で事務所を始めて間もないころのことです。ろくに仕事もなく、近くで事務所を開いていた 秋山東一 を毎晩のように訪れ、ビールを山のように空けながら、「イヤー台湾はサー」とクダを巻いては、彼の床に穴の開いたワーゲンを運転して帰宅するという生活を送っていました。

秋山、あまりに台湾台湾という私がうるさくなったのか、「オーそれじゃ一度いってみるかー」。集まった八人、夏にさしかかったころ、穏やかだった当時の台 湾の地を踏むことになったのです。トントンおじさんやら、中国将棋やら、暑さにすぐバテる米国のミニバンに乗って(確かシボレーだったかと)、ひたすら南 に南に車を走らせました。皆さん、日本ではなかなか体験できないことを味わった一週間でした。

その後 東アジア世紀末研究会 と称し、アジアの各地を旅するだけの会を開きました。初めての台湾の旅から、まもなく二十年を迎えようとしています。二十年目にはもう一度、台湾を皆さん と訪れてみたいと考えています。ただ残念なのは、このうちお一人はお亡くなりになり、もうひと方が明け方の湯河原でその姿を消してしまったことです。

Monday, September 27, 2004

「蘇る”旧体制”ーサイゴンのホテル」 十年後記


二年前、台湾の仕事は数カ国の関係者の関わるため、英語が共通語として使われることになった。現地の会社で英語習得のプログラムが組まれ、私もそれに参加 させられた。英語教師の面接が行われ、最初に登場したのはカナダ人女性。闊達な性格はよかったのだが、話をしていると彼女の口元しか見えなくなってしま う。とても大きいのだ。副総経理に遠慮してもらいたいむね伝えた。

次がやはりカナダ人のガッシリした男性。日本、韓国と英語教師を務め、いまは台湾に滞在していた。彼の場合は呼吸困難なのかと思えるような息づかいで、遠慮していただいた。後で聞いたところ、ラガーマンだそうで、鍛えられた首周りが気管を圧迫していたのかも知れない。

私のわがままを満たしてくれたのが、英国人の若者。はじめてあったときには高圧的で横柄に見えた。ただ、発音が良かった。英国人特有の切れのいい話し方もいままでに味わったことのないものだった。私からOKがでたその場から授業をはじめたのには驚かされた。

この若者、なかなか面白かった。実は若者ではなく若造だったこと。年をごまかしていた。25だという話だったが、本当は22歳。なす事ハイティーンのよう。そのくせ部屋にはいるときには私を先に立たせるという慇懃さも持ち合わせている。

ちょうどその頃、コソボ紛争が激化しており、教材にも英文ニュースが扱われた。この紛争の意見を求められたので、「空爆は不公平だ。圧倒的な戦力差があり ながら地上での戦いをしない。湾岸戦争もそうだったが、紛争を押し進めるのはいつもアングロサクソンだ。」と英国と合衆国をやり玉に挙げた。彼はそのまま 聞き流していたが、このところの大きな紛争はみなアングロサクソンが仕掛けた戦いだっようなきがする。

サイゴンのレックスホテルでポータブルラジオを屋上のテラスに持ち出し、熱心に聞き入っていたのも当事者の英国人だったことを思い出す。

Sunday, September 26, 2004

日本で使えない携帯電話は・・・

今日の台湾は休日。農暦八月十五日は中秋の満月、中秋節です。天気がよければみな月見に出かけます。

今年4月に台湾を訪れた時購入した携帯電話、東アジアでは立派に働きますが日本では役に立ちません。この携帯電話、電話機能にMP3プレーヤーを加えたも のです。まあ購入の動機が不純で、騒音で溢れる台湾の環境から切り離れていたいというものだったのです。PCを使ってお気に入りの張恵妹のCDから、この 携帯にケーブルで転送して聴いていました・・・

こ の夏、vodafoneがシャープの携帯を提供したので購入しました。100メガのカメラが使えて(このblogに掲載している写真のほとんどはこの携帯 で撮影しています)海外でも使えて音楽も聴けて・・・と思ったのですが、音楽がどうしても転送できません。どうも他のソフトを購入しなければならないよう です。台湾で購入したNOKIAには、PCと携帯とでデーターやムービーまでもが至極簡単にやり取りできるソフトが始めからついているのにです。結局携帯 電話とミュージック・プレーヤーとは別々に用意せざるを得ません。

テレビ好きの私は「人間の証明」などという連続ドラマを見ていました。ここで久しぶりに耳にしたのが「A Place In The Sun」。主題歌でした。私が知っているこの歌の歌手はスティービー・ワンダーです。しかし歌っていたのは河口恭吾。彼が歌う「A Place In The Sun」は乾いています。デジタルプレーヤーにぴったりです。張恵妹の歌の後にこの歌を加えて聴いています。

Thursday, September 23, 2004

胡椒売りのベトナム人 (台湾・台北)

ア トリエには格別な味の胡椒がある。台湾の知人から頂いたこの胡椒、味が深い。深いのにはわけがある。知人は台北の高級住宅地天母の高層高級マンションに移 り住んでいる。マンションにはベトナム人の胡椒売りがやってくるそうだ。注文すると、マンションにあがって何種類もの胡椒のカンからいくつかを選び、計量 し、おもむろに胡椒を擂りだす。確かに格別な味である。舌にピリッとする味、丸く舌触りのいい味、鼻に独特な香りをもたらす味、絶妙に交じり合っている。 胡椒というのは奥が深い。教えられた。

Tuesday, September 21, 2004

ロケ地の古い写真 (台湾・澎湖島)

台 湾の映画監督、侯孝賢監督の作品「風櫃からきた少年」を観て思い立った旅。台湾海峡に浮かぶ島の小さな村はずれにあるロケ地を訪れます。喧嘩ばかりをする 少年たちが、ついに家出をする決意を固める場面の小さな廟の前で撮った記念写真。紙焼きのもので、裏には1988年7月9日と記してありました。

[参照: 「看海的日子ー風櫃の三合院住居」 ]

Saturday, September 18, 2004

「二つの香港」ー英国の置きみやげ 十年後記


返還以前の香港の魅力は、なんといっても「チャイナウォッチャー」の役割だったろう。当時、鎖国を敷いていた大陸中国の情報は、すべて香港から発信されて きていた。文化革命が嘘八百の固まりだったこと見抜いていた当時の識者は、やはり香港情報の行間からそれを探り当てていたという。そんなことなどつゆ知ら ない私などは、MLなどという集団に同調、日比谷公園や新宿駅周辺で花の七機(第七機動隊)に襟首を捕まれ、危うく棍棒の餌食になるところだった。

世界中が落ち着いて、私も「東アジア世紀末研究会」などと名打った旅を何度か行うようになっていた。香港の旅に、当時話題になった香港上海銀行の見学を依 頼しておいた。ところがなかなか許可が下りない。出発のほんの寸前でOKがでたのだが、銀行の案内人と話してみると、我々のグループ名が問題になったそう だ。「東アジア世紀末研究会」、うーん極左グループと読めないこともなかったか。

天安門事件の時は台北にいた。メディアは反大陸キャンペーンで盛り上がっていて、私も毎日新聞とテレビを覗いていた。ある日「トショウヘイ死亡」の記事。出所は香港、しっかりガセネタだった。

Friday, September 17, 2004

「訂婚」ってわかりますか? (台湾・台北)

私 が台湾で取り組んだ始めての大きな仕事が軌道に乗り始めたころのことです。仕事が一段落したので、スタッフをお酒に誘いました。なかには二人の女性もいっ しょです。出かけた先は私の馴染みの店。定宿のホテルの真向かい、このホテルで働いていた人が開いたお店です。我々、お酒とカラオケで盛り上がってきま す。すると同行した一人の女性が私に一生懸命話かけてきました・・・

盛り上がっていても会話は身振り手振り、以心伝心というところでしょうか。しかし仲間の女性にまじめに迫られては対応しようがありません。何しろ目がまともです。一生懸命理解しようにもなすすべがありません。中国語を覚えなければと思ったきっかけの一つです。

彼女、コースターに何かを書いています。そこには「訂婚」と書かれていました。いろいろ思い浮かべますが理解からは遠くにあります。うーんうーんと唸って いる私の脇で、彼女は涙を浮かべ、下を向いて黙ってしまいました。私は仕方なくお店のママを呼びました。ママが彼女の脇でやさしく話を聞き始めます。

まもなく彼女は仲間の女性と二人で家に戻りました。私は店に残りママから話を聞きます。その内容は・・・ 彼女は父親が定めた結婚相手、つまり「許婚」い いなずけがいて、それに耐えられず国から出てきた、というのです。まだ二十歳を出たばかり、自分の思いも伝えられず、そのことを誰かにわかってほしかっ た、というのです。日本でも一昔前までは普通だった「訂婚」という制度、それを台湾で知らされるとは思っても見ないことでした。

[写真は当時の彼女 今は立派なおばさんかも・・・]

Tuesday, September 14, 2004

上海青春群像 (中国・上海)

一 昔の上海、外灘(バンド)に残された戦前の建物のライトアップが始まったばかりのころ、魯迅の住まいを取材に出かけた。住まいを管理している役人とあれこ れ言い合った疲れを断ち切るため、最高の食事をとることにした。外灘に面した和平飯店から出たところで、三人の少年に声をかけられた・・・

彼 らは確か英語で話しかけてきたたような気がする。内容がどうだったのか覚えがない。要は外国人と見ると捕まえて、あれやこれや話をしたい様子だった。うる さく付きまとうのを振り切って群衆の中に紛れ込もうとするが、それでもあきらめずに追いかけてくる。彼ら三人の風情を観察する。<タカリじゃない な>。服装もこぎれいだ。一人は顔立ちもいい。

追い払うにはあの手かと、いつもの悪い冗談を使ってみることにする。
「おい、おめーかわいい顔してるなー、今晩いっしょに遊ばないか?」
かれら驚かない。それどころか、それならどこどこがいいですよとまで言ってくる。

ふとひらめいた。<メシの場所を聞いてみるか>。
「俺っちら、これからメシ食いたいんだけど、いいとこ知らないか?」
かれら、あっちだこっちだと有名店ばかりで新鮮味がない。
「普通の店でいいんだ、美味ければ」
三人が相談している。と、ニヤッと笑って答えた。
「上海大厦(厂+夏)の裏に安くて美味しい店があるのですが・・・」
歩いて五分もかからない。あのホテルの裏に食い物屋なんてあったかなー、と思いつつ
「OK,いっしょに食うかい?」
「食事はしたばかりなんです。でも一緒させてください」
このころはもう中国語だ。私の連れは英語で話している。彼らの英語は流暢だ。

上海大厦(厂+夏)の横道は長屋が続き薄暗い。食い物屋らしい店も見当たらない。少々不安だったが彼らに続いた。長屋の一軒の扉を開けて中に入る。客は誰 もいない。時間は夕刻六時過ぎ、十分食事どきのはず。普段着の青年が注文をとりに来る。普段着だというのも珍しい。若者たちに注文を任せる。

我々はビールを、彼らは清涼飲料水を注文した。乾杯をしてから、お互いの素性を話し合う。彼ら大学生、暇をもてあまし、仲間と外人を漁っては外国語を鍛えているとのこと。

食事を待つあいだ店の中を観察する。ばーさんが店内を掃除している。確かに全体が小奇麗だ。
注文が次々と運ばれ口にする。悪くない。いや、美味しいかもしれない。運んできた青年にその旨伝える。にこっと口元で笑い奥に下がっていく。我々五人は雑談と会話に花を咲かせていた。店には少しづつ客が増えてきていた。

そのときハッと気づいた。店内には女性が一人もいない。客も従業員も掃除のばーさんを除いてその場の人間はみな男性ばかり。少年たちの顔を見ると、<気が つきましたねー>という目で笑いかけてきた。<そうか、ここはホストの集まりだったんだ>。私の悪い冗談に、彼らは見事に答えてくれたのだ。

店の中の男たちは、薄暗い店内でも整った顔立ちなのが分かる。中には化粧をしているものもいる。みな店を仕切っていた男性と親しげに話をしている。少年のひとりが話をしてくれた。

「この店の店長はもと上海で有名なホストでした。辞めてからここにスナックを出したんです。」
「お客のほとんどは現役のホスト、お店に出る前ここで食事をしていくんです。」
「一番賑やかになるのは真夜中です。店を終えたホストが集まってきます。」

きっと壮観だろう。大きくない店に着飾った男たちが一堂に会する。
しかしこの少年たちはなぜ裏事情まで詳しいのか。それは彼らの父親と関係していた。
ひとりは大学の先生の子供、もう一人は共産党の、そして最後の一人の父親は公安部の偉いさんだった。上海を仕切っている連中の子供たちなのだ。知ろうと思えばいろいろ知ることができる。

公安の息子は
「これからどうするのですか?家に来て裏ビデオ見ませんか?日本のものもありますよ」
おやじは分捕った裏ビデオを家に持ち帰って観ていたのだ。
いつの時代も青少年は時代を表している。今、彼らはどうしているだろうか、興味深い。

[写真は今年五月のバンド]

Monday, September 13, 2004

[東アジアの人たち] 森坂のケンちゃん (台湾・森坂)

ケ ンちゃん、台湾東海岸の花蓮という小都市から車で一時間、南に下った風光明媚な森坂の営林署で働いている。お酒がすき、賭け事がすき、女性が好き。お酒を 飲んで、飲み屋の女性をバイクに乗せて事故を起こし、片目を傷めてしまう。それらが原因でカミさんに離縁状を叩きつけられてしまった・・・ [写真中央が ケンちゃん]

ケ ンちゃん、台湾の原住民、阿美族です。がっしりとした体格で、屈託のない笑い顔がとても印象的。営林署という役所で働けたのは、高校卒業で頭もよかったか ら。三十代までは、十日分の食料と森林管理用用具を背負って、時には二週間、山に入っていたそうです。その彼も、酒の飲みすぎで痛風をわずらい、重いもの を長期間背負うことができなくなった。事務職に就いたものの性に会わない、木材の切り出しのなくなった今では、営林署がする仕事も少ない。結局、昼過ぎに 彼と連絡を取ることは難しい。なぜなら彼、どこか勝手に出かけているのです。・・・ 

はじめてケンちゃんと会ったのは一九九○年の二月。雑誌の取材で、東海岸の花蓮空港を降り立ったときに出迎えてくれたのがケンちゃんでした。その前の晩、 台北の飲み屋さんのお嬢さんたちと夜食をとっていたときの話がきっかけで、一人の女性が案内役を引き受けてくれました。ケンちゃん、その案内役の亭主でし た。私たちはその日から三日間、ケンちゃんとケンちゃんの奥さんとが過ごした時間を遡ってみることになったのです。

案内されたのは彼女の生まれ育った村。蒋介石の政府がつくった原住民移住策でできた村、そのなかのなかの一軒が彼女の実家です。平屋建てで小さなコンク リート作りの家の前庭には、とうもろこしが当たり一面敷き詰められています。家の裏には直径ほぼ二メートルの衛星テレビアンテナがすえつけてあります。通 された家では日本のNHKが映し出されていました。味の薄いお茶でもてなしていただき、我々は次の旅に出ます。

次に案内されたのは二人の生活の場。彼女がケンちゃんといつどこで出会ったか、聞いたような気もしますが今では忘れてしまいました。どちらにしても二人は 出会って、愛し合い、結婚します。二人とも阿美族、何の問題もありませんでした。そしてケンちゃんの働く森坂営林署の中で生活をはじめます。日冶時代に繁 栄を極めた林業も、今では台湾檜の伐採も制限され、かつモリサカが管理する樹木は八十年代初めの山火事で失われていました。それでも役所の生活は気楽なも のだったようで、ケンちゃん山に入る以外はこれといった仕事もなく、好き勝手ができたようです。

夕方我々がこの村に入ると、道端では数人の人が集まって焚き火をしています。魚を串刺しにして焼いていました。村の脇を流れる大きな川から取ってきた魚です。にぎやかな焚き火でした。

ケンちゃんの家は日冶時代の日本家屋の長屋。けっして立派な出来ではありませんが、総檜作りです。何しろ檜の産地だったのですから。営林署にある建物はみ な檜作りです。村全体が日本の官舎をそのまま使っているのです。静かで落ち着いた、まるで日本の田舎に入り込んだようです。そこに住む人たちも志津かで落 ち着いていて、懐かしい人たちにあったような想いです。

私はとてもこの村が好きになりました。それ以降、機会があるごとにこの村を訪ねています。調査に、会議に、遊びに、その度にケンちゃんと会うことにしてい ます。時間はケンちゃんと奥さんの関係を変えていました。営林署は、森坂の衰退的解散を選んでいました。局員の定年までの森坂です。多くの職員はこの村を 愛し、生涯をここで終えることを望んでいました。二人の成長期の子供を抱えるケンちゃん、給与が増える望みは少ない。それでもケンちゃんのノム・ウツ・カ ウは続いていたようで、奥さんは堪忍袋の緒を切らしたといいます。奥さんは台北で、ケンちゃんは今でも森坂の日本家屋に一人で住んでいます。

Thursday, September 9, 2004

私たちの総統あなたたちの天皇

台湾に長期滞在していたころの話。ホテルの珈琲カウンターで従業員と話をしていた。どんなきっかけだったか忘れたが、国のトップは誰?と。一人の若い女性曰く「私たちの総統、あなたたちの天皇」と答えた。そのとき彼女たちは日本のトップを天皇と思っていたのかと・・・

日本の首相のことは知っているものの、よく変わる彼らの名前を正確には覚えていない。それより、小学校のころから教わってきた「天皇」は、ある意味身近だったのかもしれない。自分自身でも変に納得したことがある。外国人に説明するにはとてもわかりやすい。
サッカーアジアカップで起きた反日騒動、日本が勝って見せた「強くなれ!中国」が正しい答えか。

[写真は北京で燃やされた日章旗のTV報道]

「深く青き夜」ー闇の中のソウル 十年後記


この回の原稿を読み直してみて気がついたのは、十年の間でアメリカへ向かったアジアの人々の、国籍の変遷だ。ベトナム戦争に参戦した韓国の移民枠が大きく なっていたし、その前までは中国との対立から、台湾人のアメリカ留学と移民が始まっていた。その後、ベトナム戦争終結で、多くのベトナム人がアメリカに移 り住むことになる。中国との国交成立の後からは、大量の中国人がアメリカに流入することになった。それでもアメリカ合衆国で労働許可証を得るのは未だにか なり難しいようだ。

アメリカに移り住んだ彼女を訪ねたことがあった。フリーターで日本料理屋のウェイトレスをしていたが、外国からやってきた友人のために仕事を休ませてもら えるなどということは許されない。少しでも隙を見せれば仕事は他の人へと回ってしまう。彼女は、妹や友人たちに頼み、空いている時間を利用しては、代わる 代わる私の相手をしてくれた。

アメリカでの成功は、金持ちになること。明白だ。そのために1セントでも稼ごう、浮かそうとする。ロスからシアトルの国内便を予約しに、ハリウッド通りの 中国人が経営する券売屋を紹介してもらい訪れた。友人の友人のため、あれこれ問い合わせた結果、ある便を薦められた。大手と比べて10ドルも安い。航空会 社の名前は一度も聞いたことがない。国内便でも、墜落すればその話は即座に世界を駆けめぐるが、アメリカでも墜落となるとあまり話を聞いたことがない。し かし豊かな日本人は安全をブランドで買うことにし、ユナイテッドが最終的に選ばれた。これではいつまでたってもアメリカンドリームに近づくことはできな い。